わたしはここにいるよ

インターネットの片隅で愛を叫ぶ

【第六章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」

ちょっと落ち込んでいるこのお話の監督・オナニストサイボーグ葉月ひろなです。こんにちは。監督、なんでそんな落ち込んでいるんですか?だってはしょっちゃいけないエピソードすっ飛ばされちゃったんだ。え?それでいいって言ってたじゃないですか?むしろ書き加えるのがめんどうだという理由だけでそのまま更新ボタンポチったのあなたじゃないですか。違うんだ!お父さん何が違うんです?俺はその書き加えるのがめんどうなエピソードは、ちょっと悲しいエピソードだったから、あえてはしょったとこがあるんだ!この話の流れでそのエピソードは話しちゃいけないって俺の本当にあるのかもわからない第六感が叫んだから、あえてはしょったんだ。でも!その俺のすっ飛ばしてほしくなかったエピソードはめっちゃ嬉しいエピソードで、しかもそれこそが、当時の葉月ひろな(22)が、最終的に岩本勇気(26)とのデートに行こうと決めた最大の理由で、この後の10年間のお話にも10年間ひたすら繋がっていくエピソードなんだ!そんな大事なエピソードを!俺は!俺は!昨日前回の記事を書いていた時に、忘 れ て い た ん だ………!それ忘れる!?お前どうでもいいことをこれでもかと事細かに覚えていては自分だけじゃなく周囲も苦しめるお前が、それ忘れる!?っていうひたすら何の役にも立たない俺の脳みそ!俺のツイッターとかこのブログを以前から読んでくださってる方は知っているかもしれないけど、俺の脳みそのバランスはひたすらガタガタなんだ!昨年そのガタガタがわかった。主治医は前からわかっていたらしいけど、俺が自覚したのは昨年。IQは人より少し高いらしい。けど本当にほんのわずかなミリ単位でしか高くない。しかもその他が低すぎる。あり得ないぐらい低すぎる。俺にとっちゃ全力出してその低すぎる箇所の脳みそフル回転させても「なんでお前これ出来ないんですか?今まで34年間何してきたんですか?」って言われる、俺のポンコツすぎる先天性のバランスがガタガタな脳みそ!いっそもう本当にサイボーグにしてくれ!!!!!!こんなひたすら中途半端な効率悪い人生いやだーーー!!!!監督、荒れてるね。そっとしとこうか。あの人ならとことん落ち込んでウジウジしたあとにいきなり立ち上がるから。何事もなかったようにそれでもちゃんと後悔しつつ立ち上がるから。なぁ!聞いてくれよ!そのエピソードな!わ、監督。もう立ち直ったんですか。そのエピソードな!前回葉月ひろな(22)が眠りにつく2007年4月26日の夜中の、この葉月ひろな(小娘)が眠りにつく5分か10分ぐらいか30分ぐらい前のエピソードなんだ!曖昧ですね。中途半端に曖昧ですね。だけどさ!確かに俺は前回の記事でみんなをタイムマシーンに乗せた!けど5分か10分か30分前ってそんな10年間でいったらミリ単位なタイムスリップみんなにさせるわけいかないじゃん!?あ、それはわかるんですね。あなたひたすら常識からはずれてる人生歩んできたのに、それはわかるんですね。なぁ!!どうしたらいい!?もう前回の記事は上映させちゃったよ!?読んでくれた人いるよ!?俺のスマホからは読んでくれた人の人数がわかる!!こんなんわからなければしれっとそのエピソード付け加えるのに………!あなた【【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】で、あとからしれっとエピソード付け加えたのに?あ、これ忘れちゃいけなかった☆テヘペロ☆って、あなたにしちゃ多すぎるアクセス数いただいたあとにしれっと付け加えたのに?自分では当たり前だと思っているから説明しなかった学歴についてとかも【【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】にしれっと付け加えたのに?他にもミリ単位な説明のエピソードこの連載の他の記事でも付け加えたよね確か?【前前前世からずっと。来来来世までもいつまでも。 - わたしはここにいるよ】もかなりあとからエピソード思い出してツインレイのセオリーもそれに対するあなたの考えも大幅に付け加えたのに?こんなに付け加える?【コンビニ24時間営業、ダメ。絶対。 - わたしはここにいるよ】でコンビニの仕事に異を唱えてる場合じゃないよ?ってぐらいそのロイくんとのエピソードでは足し算したのに?うるせぇ!!!今回はそれをしちゃいけないのがなんとなくわかるんだ!!!!!なんとなくしかわからない監督の脳みそ。草草。どうしたらいいかお前ら考えろ!!!!!監督、自分で考えましょう。自分の人生ぐらい自分で決めるって決めたでしょ。【あなたの想っている人がツインレイじゃなかったら。その時、あなたは? - わたしはここにいるよ】でもチェイサーに対しては結構厳しい言葉で自分の人生自分で決めろってあなた書いたじゃん。俺の脳みそがポンコツだから早くサイボーグにちゃんとしてくださーーーーーーーい!!!!!!!!!!監督、人間、やめちゃったね。草草。

 

本当にどうしたらいいかわからないので、お話しながら考えます。わたしは誰?今はいつ?ここはどこ?けどわたしは確かにここにいる!監督オナニストサイボーグ葉月ひろなです。こ ん に ち は(涙目)!

 

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【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第三章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第四章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第五章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

↑サイボーグになった詳細とそのサイボーグが答えを見つけて世界が拓かれるまでとちょっとしたタイムスリップです。

 

あの晴れた春の日。

2007年4月27日。いつも飲む睡眠薬が切れてぼんやりとした頭で目が覚めました。岩本勇気さんとは10時に待ち合わせしている。あの九州でのマルキューみたいなのがある、この街の都心部。その駅の南口でね、って言われた。南口、どこだろう………たぶん行けばわかると思う。あ!わたしがいつも自転車を停めている場所の近くが確か南口。あそこか。今は………8時。これからお化粧すれば、時間余裕あるな。わたしの家からは、その都心部はいつも自転車で30分ぐらいで着くから。その時計を確かめたガラケーに、岩本勇気さんからメールが来ました。

 

「おはよー」

 

うれしい。同じ時間に起きたのかな。昨日、メールでやりとりをしていたら「電話で話してみようか」って勇気さんは言ってくれて。番号を教えてもらってわたしからかけたら「もっしもっし♪」って、元気なんだけどすごくやさしい声で電話に出てくれて。いつも誰かに電話をかけたら「もしもし?」って、どこかぶっきらぼうな感じでみんな出ていたのに、それが普通だと思っていたのに、すごく楽しそうに、その最初の一言で「電話待ってたよ」って言ってもらえたように感じて。思わず、笑っちゃったんだ。こんな人、いるんだ。って。

 

「おはよう!今からお化粧するよ。濃くならないようにしなくちゃね!」

 

そんなメールを返しました。それからメールを交わしながらお化粧をして。マスカラは1度塗り。いつも3度塗りしてたから自分には物足りないんだけど、そろそろメイクも落ち着かなきゃだし。チークも薄め。くちびるもグロスのみ。そんな簡単なお化粧なのに、メールを交換しながらだから、なかなか進まない。けど。楽しい。

 

自宅には、その時は父も母もいなくて。父は仕事に、母は大学に通っていました。父も母もこの時50代でしたが、高卒の母を見兼ねて、父がお金を出して母を大学に通わせていたのです。そろそろ家出なきゃなぁ…………と思った瞬間、家の鍵がないことに気がつきました。あれ!?なんでない!?いつもこの玄関の横に置いていたはずなのに……!バタバタと自室に戻って、自分のカバンを片っぱしから探しました。ない!ない!どうしよう!とりあえず、勇気さんに連絡入れないと!

 

「ごめん、家の鍵がない!探してる!」

そうメールを入れたら

「俺は今電車に乗ってるよー(^^)」

って返ってきた。やばい。早く見つけないと。この人との待ち合わせには、遅れたくないんだ。

 

その後10分ぐらい探していたら、こんなとこにある?っていうカバンから鍵が見つかって。わたしひたすら部屋の片づけも苦手だし、どのカバンに何を入れておいたのかも、いつも忘れてしまう。女子力低い!そんなこと嘆いている場合じゃない!早く、自転車に乗らないと!待ち合わせの10時まであと20分しかない!

 

お気に入りの水色の自転車にまたがって、全速力で都心部に向かいました。道は比較的平坦だから、いつも鼻歌うたいながら走る道。今日はそんなのんきに自転車こいでいる場合じゃない。はやく、行かなきゃ。はやく、勇気さんのところに。はやく、あの人のところに、行かなくちゃ。

 

信号待ちで携帯を開いたら

 

「南口着いたから、近くのベンチに座ってるね(^^)」

 

そうメールが来ていて。やばい、もう待ち合わせの場所に着いてる。てか、ベンチってどこ?わたしは誰かと南口で待ち合わせをしたことがないからわからない。けど、きっと行けばわかるから。はやく、行かないと。あの人だけは、待たせちゃいけない気がするんだ。

 

そうしてひたすら全速力で自転車をこぎました。わたしはもともと汗かきなので、途中から汗が身体中に吹き出します。この九州は、関東より、暑い。まだ4月なのに。きっとお化粧も崩れてる。もう崩れてる。あんなに時間かけたのに。けど、そんなの気にしている場合じゃない!

 

必死に到着した南口。

ようやく南口に着いて、携帯の時計を確認したら、10時を数分まわったところ。よかった、今日は20分でここまで自転車で来れた。自転車はまだ自転車置き場には置きに行かず、そのまま勇気さんに電話をかけました。

 

「もっしもっし♪」

「あ、あのね……!今着いた!ベンチって、どこ?」

「あ、着いた?ならそこにいて、俺が行くから………って」

 

「いた。」そう勇気さんの声がして。下を向いて電話をしていたわたしが顔を上げたら、目の前に勇気さんが、携帯を耳につけながら、歯を見せたやさしい笑顔で立っていました。昨日見た写メの、NEWSの小山くんみたいなんだけど、笑っているからかな。写真の印象とは違うんだけど。でも、この人の笑顔は。なんで。こんなに、見ただけで人を安心させられる、笑顔なの。なんでその笑顔には。言葉には表せない、やさしさが、つまっているの。まるで。そこにいるだけで、周りが、世界が。明るくなるような。

 

「ごめんね!待たせてごめんね!」

 

電話をオフにしながら、水色の自転車の横でそう言うわたし。汗だくです。ビームスの黒いお尻まであるトップスに、濃いインディゴブルーのスキニー。靴はペタンコの白い靴。靴紐を自分で黒いレース変えていました。髪は少しパーマがかかっている、茶色いセミロング。白いレースをカチューシャのように髪に巻いていました。その髪も乱れているし、もう化粧は崩れている。この時はもう医療用コルセットは外していました。そんな、汗だくの、女。

 

「汗だくやな!」

「うん、急いできた!」

「鍵なかったもんな」

「なんで鍵ないの?って感じだった!」

「自転車どうする?どこに停める?」

「あ、そこのショッピングビルの地下に自転車置き場あるんだよ。いつもそこに停めてる」

「へー知らんかった」

 

そうして一緒に地下まで自転車を置きにいって、「ちょっと、お金おろしに行きたい」というわたしを、勇気さんがATMまで案内してくれることになり、再び地上に出ました。春の日差しが、まぶしかった。まるで、F田先生に閉鎖病棟から外に連れていってもらえた、あの最後のリハビリの時のように。

 

「わたしさーほんと汗かきで。小学生の頃から体育の度にわたしだけ汗だくでさ!」

「あーわかるわかる。俺は身体にはあまり汗かかないんだけど、手のひらがすごい汗かくんだよ。でもな?この手のひらの汗を止める手術をしたとするやんかー。そうしたら、身体の他のとこから汗が吹き出すんだって!人間の身体ってよく出来てるよなー」

 

自分の手のひらを指差しながらそう話す勇気さん。この人、色んなこと知ってるんだな。ほとんどの人はそれを知らないと思うよ。勇気さんは関西で生まれたらしく、育ったのは長崎の五島列島。中学生の時に九州本土に来たらしい。そのためか、他の人が話す方言とは、少し違う。だけん、とかも話すし、関西弁も少し混じっている。「他の人と違うやろ?これは“俺弁”やねん。昔は“俺”じゃなくて“わし”とか言ってたしな」そう笑顔で話す勇気さん。なにそれ!おかしい。黒歴史じゃん。ってわたしも人のこと言えない。でも、なんて、楽しい人なんだろう。

 

そうしてATMに着いて「今日いくらおろせば1日遊べるかな?」そう訊くわたしに「3000円ぐらいじゃない?」と言われたので、少し余裕を持たせて4000円をおろしました。

 

「お腹すいてない?」

「あ、すいてる。朝ご飯食べてこなかった」

「近くにミスドがあるから行こうか」

「うん!」

 

そうしてミスドに行ったら、勇気さんはひたすら甘いドーナツを選んでいて。まぁミスドに来たら、だいたい甘いドーナツが多いしね。でもわたし、甘いもの苦手。しょっぱいのがいい。わたしはウインナーのパイを選んで、席に着きました。

 

ミクシィのプロフィールに書いてあった病気って、なんなん?」

「あ、えーとね………わたしもうまく説明出来ないんだけど…………たまに感情がコントロール出来ない。だから行動までコントロール出来なくさ。それで落ち込んだり、自分傷つけちゃう」

 

そう言いながら、左腕のリストカットの、もう薄くはなったけど、医療用ホチキスみたいので縫わなければならなかった、確かに深い複数の傷を、少しだけそでをめくって見せました。初対面だけど、この人にこれを隠すことはないと思ってしまったのです。腰の爆弾については、この時はまだ話せません。でもそんなわたしを、ただひたすら、やさしく見つめてくれるのです。責めることなく。肯定もすることなく。今までの自分の学歴のなさも話したと思います。中学もまともには行けなかった。高校も2回中退した。大検はとったけど、それで大学に入学したのに、その大学でさえ、中退した。働きに出たことはあるし、高校の時はコンビニでバイトもしてた。なのに、なぜかいつも、長く続かない。入院をしたこともある。今は主治医から自宅で療養をするように言われてる。

 

そんな話をするわたしの左腕のリストカットの傷を、勇気さんはやさしく撫でてくれました。左腕だけじゃないんだ。右腕にもあるんだ。そんなあまりに馬鹿なわたしの腕の、深い傷。そんな風にやさしく撫でてもらったのは、はじめてで。なんで初対面なのに、あなたはそんなにやさしいの。なんで。こんなことで、わたしの胸は高鳴るの。なんで。こんなに。うれしいの。

 

「食べたね。じゃあ、行こうか」

「うん!」

 

はじめてのラウンドワン

そうして再び外に出て、近くのラウンドワンに行きました。でもわたしはラウンドワンははじめて。そもそもそんな娯楽施設があるだなんて知らない。それまで友達と遊びに行っても、恋人と遊びに行っても、だいたいがショッピングだったから。こんな、遊園地みたいな室内の娯楽施設があるんだ。この人、本当に、なんでも知っているんだな。

 

そこで生まれてはじめてのビリヤードを教えてもらいました。棒の持ち方、玉の打ち方、どんなルールで勝敗を決めるのか。その棒の先にはチョークのような粉がついているらしく、わたしがうっかりその棒の先を勇気さんの服につけてしまって。ちょっとだけ、おい!この服高いんだ!って顔をするんだけど、それでも許してくれて。わざとじゃないから?わざとじゃないから許してくれるの?でもわたし、わざとじゃないのに失敗をしてしまったら、よくお父さんに怒られていたのに。そうしてゲームを始めるのだけど、わたしはまだこの時は体力がひたすらなくて。少しだけゲームをしただけで、疲れ果ててしまう。「ごめん、休みたい」と言ったら、それでも許してくれる。今日は、ビリヤードをしに来たのに。

 

「ちょっとそこにいてな」

 

そう言われて、足のつかない高い椅子に腰かけていました。ビリヤードをするためのこの部屋は、たくさん他にもビリヤードを楽しんでいる人がいるけれど、なんだか薄暗い。疲れた………なんでこんなに疲れるんだ…………小学生の時は文化系のブラスバンド部だったけど、トランペット吹いていたから肺活量はあったし、マーチングで主指揮をしたこともあるのに。中学生の時もバスケットボール部だったし、全日制の高校で所属していた男子ハンドボール部ではマネージャーとして球拾いに明け暮れて毎日走っていたのに。大学の軽音楽サークルでも、その練習の帰りに終電を逃さないようにみんなでダッシュして、ずば抜けてわたしは足が速くて、なんでそんなに速く走れるんだひろなちゃん!って男の先輩に言われたのに。今はひたすら体力がこんなにない。けど。今日、楽しい。楽しすぎる。なんでこんなに楽しいのか、わからないけど。ただただ、楽しい。色んな世界を知っているあの人といるのが、こんなに、人生で一番、楽しい。

 

「楽しいね。勇気くん」

 

そう、どこかに行ったかわからない勇気さんにメールを送りました。このメールを送らずには、いられなかった。なぜかこの人には、最初からわたしは敬語を使っていなかった。関東の開放病棟は、基本的にどんなに年齢が離れていようと、みんなタメ口で。でも九州の飛び降りをした開放病棟は、タメ口を基本してはならないとされていて。それからは必ず目上の人には敬語を使っていたのに、なぜかこの人には、最初からわたしは敬語を使っていない。それをあの人は、怒らない。

 

ふっふふーん♪みたいな鼻歌をうたいながら、勇気さんがストローのささった飲み物を2つ抱えて帰ってきました。あ、メール読んでくれたのかな。勇気さんも、楽しいのかな。そうだといいな。そうだといいな。え?そうだといい?なんで?なんで、今、こんなに同じ気持ちでいたいの?わたし、勇気さんのこと好きなの?もう好きになっちゃったの?今日、会ったばかりだよ?わたし、どうしちゃったの?

 

「はい、コーラ買ってきた。コーラでよかったかな」

「ありがとう!いくらだった?今返す………」

「ああ、いらんいらん」

「え!?」

 

わたしはカバンからお財布を出そうとしながら狐につままれたような顔をして。え?だって、これ、わたしが飲むんだよ?わたしの胃袋に入るのに、なんであなたがお金を出すの?なんでそれを返さなくていいって言うの?デートは基本割り勘だし、それぞれの飲み物や食べ物は自腹が普通なのに。そうして大きなコーラを渡されて。

 

「上の階にな、休憩出来るとこがあるみたい。そこに移動しよう」

 

そう、やさしく笑ってくれて。

 

だめだ。こんな人、はじめてだ。こんな人、こんな人、本当にいるんだ。はじめての電話でも「電話待ってたよ」って言わんばかりの「もっしもっし♪」って声で出てくれる人。なんでも知っていて、なんでも教えてくれて、わたしがヘマをしても、怒らない人。わたしの過ちを、怒らない人。そんなわたしに、飲み物を買ってきてくれる人。どこか休憩出来る場所を探してきてくれる人。こんな、人。だめだ。もうこの胸の高鳴りを、なかったことに出来ない。無視出来ない。無視しちゃ、だめだ。わたしこの人を、好きになってしまった。もう2度と恋なんて出来ないと思っていたのに。この「好きです」って気持ちを、伝えたい。今すぐ、伝えたい。わたしから告白して今までうまくいった試しなかったんだけど。この人は、きっとわたしのことは、好きじゃないけど。それでも。わたしから、伝えたい。「好きです」って。今すぐ、伝えたい。

 

「行こう」

 

そう言う勇気さんについていきながら、(次に会う約束ももうしている。両方楽しい日にしようって言ってくれたから。その日に、次に会った時に、伝えよう。今まで一度もうまくいったことのない“好きです”を。わたしの告白を。うまくいかなくても、いい思い出にしかならないから)そう思いながら、そう決意しながら、ドキドキはするんだけど、なぜか自分を全てさらけ出せる、今日はじめて会ったやさしいこの人の背中を、追いました。

 

はい、カーット!監督!今回はどうですか!?

たぶん大丈夫!たぶん大丈夫!大切なエピソードは何もはしょっていないと思う!だって俺はあの2007年4月27日を一生忘れないから。いくらこの10年後にツインレイと思われるロイくんに出会おうと俺はこの日を一生忘れないから。一生忘れない思い出はたぶん今も忘れてないから。忘れてないはずだから。でも俺の記憶回路はいきなりショートするから自分の意に反していきなりショートするから自信がないけどたぶん大丈夫!思考回路じゃなく記憶回路はショート寸前だけど今すぐ会いたいからこのままいっちゃって!ぼく、もう、この監督見捨てようかな………昭和末期生まれのこの監督いちいち古いからぼく何言ってるかわかんない……………。そんなこと言わないで!そんなこと言わないで!お前らからしたら俺は化石かもだけど俺からしたらお前らは宇宙人だしたぶん俺は見捨てられるのが人生で一番こわかったことだったから、そんなこと言わないであげて!今は別に誰に見捨てられようと知ったこっちゃないしそんなん誰もが自由意志だし宇宙でさえその自由意志はひたすら尊重するから俺も尊重するし今は自分軸しっかりしてるからそんな自由意志知ったこっちゃないんだけど、お前らに見捨てられたらなんかさみしいから!やめたげて!

 

果たして本当に岩本勇気(26)は、出会い厨じゃないのか………!?

こいつはセックスが目的ではないのか………!?

セックスが目的だとしたら、この大きなコーラたぶん当時100円か120円とかだから、安いよね!風俗行くよりはるかに安いししかも本番までいけるから、かなり安いよね!

大丈夫か世間知らずな小娘葉月ひろな(22)!!!!!

 

とぅーびーこんてぃにゅー!

監督!英語へったくそですね!

うるせぇ!またこの場所でな!

 

葉月ひろな

Twitter @hazukihirona

hazukihirona@gmail.com

↑何か言いたいことあったら、ここに送ってくれな!みんないつもやさしい涙しかちょちょ切れない感想くれるから大丈夫だと思うけど、この先何か俺に言いたくなった人も出来るだけわかりやすい日本語で送ってくれな!日本語でおk!俺頭悪いんだよ!あ、でも仮に海外からの留学生が一生懸命このブログ読んでてくれたらあなたの国の言葉でOK!今はインターネットであらゆる国の言葉が翻訳出来るほんやくこんにゃくがあるから!

【第五章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」

こんにちは。みんな元気?わたしはまぁまぁ元気!オナニストサイボーグ葉月ひろなです。昨日の【【第四章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】で「そろそろ本当に勇気さん登場させないと!」という使命感にかられたサイボーグは「エピソードをはしょる」というかたちでむりやりオナニーをしたのですが、記事をアップしてから「え?このエピソードはしょったら、その後の話したいこと、話せなくない?」ということに気がつきました。たぶんそのエピソードはこの10年後ぐらいに繋がっていくのですが、おそらくこのエピソードをはしょると、そこがお話出来ないのです。で、たぶん、最後の記事で何を言いたいのか、もお話できないのです。サイボーグは脳みそがサイボーグなわけではないので、ひたすら効率が悪いのです。なので今回は少し時が遡ります。時をかける少女になります。今34歳だけど!当時は22歳だからいいよね。大丈夫だよね。成人してるけど22歳なんて小娘だし。時をかける小娘にさせます。前回2007年の4月でしたが、2006年の12月のお話から始まります。ではどうぞ!机の引き出しからタイムマシーンに乗ってください!しっかりつかまってー!わたしはわさびドラえもんの声真似がクリソツらしいので、きっと操縦出来ます!

 

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【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第三章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第四章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

↑サイボーグになった詳細とそのサイボーグが「答え」を見つけて世界が拓かれるまでのエピソードです。

 

あの寒い冬の日。

2006年の12月。自宅療養を続けるわたしは、ある日母と買い物に行きました。茶色いブーツを買ってもらいました。安価なブーツだけど、わたしの足にぴったり。ヒールはあるけど、あまり高くはないし、ピンヒールではない。ハイヒールは「勝負の日だけに、しなさい」と言ってくれたロマンスグレーの整形外科医。わたしこの先勝負する日くるかわからないけど。これ、履きたいな。そんなわたしに、母が買ってくれました。「今、履いてもいいわよ」という母の言葉に背中を押されて、そのブーツを履きながら、約2年ぶりにヒールの高さを感じながら、ヒョコヒョコと歩いて母と自宅に帰っていました。そこに父からの着信がきました。

 

「おじいちゃんが、危ない」

 

その頃、父方の祖父はアルツハイマーを患い、最初は記憶と言葉をだんだん忘れていき、それでも感情は忘れることなく、自分自身の記憶と言葉が失われていくことに戸惑い、時にはそんな自分に怒り、そんな自分を理解してもらえない周囲にも言葉にはならない怒りと悲しみを表現し、だんだん正しい排泄の仕方も忘れ、食事のとり方も忘れ、自宅から医療施設に移り、そこで胃ろうの手術を受け、きっと今はもう言葉を発することも意識もほとんどないけれど、液体の食事をむりやり胃に流し込まれ、たまに喉の奥の痰を掃除機みたいので吸い取られながら、その施設で一生懸命生きていました。声をかけても、もう返事はないけれど。おじいちゃん。ひろなだよ。お見舞いに行っては、そう声をかけていました。

 

そんな祖父が、危篤になったと。「今すぐ来てください!」と病院から連絡があったと。わたしは履いていたブーツのまだ慣れないヒールの高さを感じながら、父と合流し、途中で祖母とも合流し、4人で祖父のいる病院に向かいました。病室まで行ったら、祖父は既に息を引き取ったあとでした。

 

「間に合わなかったったい………!」

 

父はわたしの前で、はじめて博多弁でそう言いました。お父さんが、博多弁しゃべってる。その父と祖父には、血の繋がりはありません。父が小学生の頃祖母が離婚をし、父の実の兄は離婚をしたわたしの本当の祖父に引き取られ、祖母が再婚をしたことで、わたしの父の「義理の父」となった人でした。そのわたしの父には実は妹もいて、わたしが15歳の頃にようやくその3兄妹は再会を果たしていました。その時にわたしも生まれてはじめて「いとこ」に会うことが出来ました。ずっと15年間、わたしにいとこはいないと聞かされていたのに。父の実の兄に、子どもがいたのです。そのいとこは、わたしより8歳年上のお兄さんと、わたしより2歳年上のお姉さんでした。苗字を「米田(仮名)」といいました。わたしは葉月家の末子孫ではなく、米田家の末子孫だったのです。そして、その米田家は、このいとことの初対面から15年以上経ってからその結論に至るのですが、日本のある一族の血を、少なからず引いている一族でした。いとこのお兄さんもお姉さんも、卒業した大学は法学部。わたしの父もそうでした。なのでわたしも中退した大学は法学部でした。わたしだけ、全然活かせてないけど。

 

そんな父の、血の繋がりはない祖父。すぐにお葬式の準備に入りました。祖父の写真を選び、飾る花を選び、いよいよ明日はお通夜。そんなお通夜の前日に「もっと、親孝行すればよかった………!」そう父は泣き崩れました。わたしの父はひたすら現実主義・合理主義なはずなのに、テレビで感動する話が流れたら、黙りながら涙を流す人でしたし、そこで泣く?というところでも号泣する人でした。なので父の涙には驚きませんでしたが「今、この人は父ではなく、ひとりの息子なんだ。」そう感じていました。そこに、血の繋がりなんか、なくたって。

 

その祖父のお通夜で読み上げる弔辞が、わたしに任されることになりました。なぜか母が「やってみなさい。あなたなら出来る」と言ってくれたのです。この頃わたしは予備校の彼が忘れられない一心で、よくその思い出を短いポエムにしていました。そして漫画の二次創作でも携帯サイトで夢小説を書いていました。その他にもパソコンでサイトを立ち上げ、自分の言葉を綴っていました。そんなわたしの創作活動を知っていた母が「やってみなさい」と。「あなたなら出来る」と。久しぶりに、人前で話す。わたしは小学生の頃に児童会長をしていて、よく全校生徒の前で挨拶をしていました。全て自分で考え、完璧に暗記して。今回も全部自分で考えよう。ちゃんと暗記して話そう。そう決めました。

 

そうしてお通夜を迎え、わたしが弔辞を読みました。

 

おじいちゃん。今、おじいちゃんの心の色は、どんな色をしているでしょうか。わたしは心を色に喩えるのが好きです。悲しみの群青、怒りの深紅、よろこびの輝く黄色。絶望の漆黒。あなたの心は今どんな色をしていますか。全ての浄化された、透きとおる透明な色をしているでしょうか。わたしとおじいちゃんの間には、血の繋がりはありません。けれど、おじいちゃんは、わたしの作るカレーを本当にたのしみにしていてくれた。韓国からの帰国子女のわたしの作るカレーは、おじいちゃんには辛すぎるはずなのです。なのに、わたしが九州に来る度にカレーを作ったら、その翌日に「ひろなのカレーはまだあるか?」と、仕事場から電話をかけてきてくれたぐらい、わたしのカレーをたのしみにしていてくれました。同じように血の繋がりのない兄が幼い頃、一緒に海にいったら、わざわざズボンを脱いまで、一緒にびしょ濡れになるまで遊んでいてくれたと聞きます。そんな兄からもらった腕時計を、ずっと大事にしていたと。ビデオカメラで遊んでいる時に、それが動画を撮れると知らないおじいちゃんは、ずっと笑顔で止まっていてくれて。「おじいちゃん!動いていいんだよ!」と言っても、ずっと笑っていてくれて。そんなわたしたちは、血の繋がりなんかなくても、確かにあなたの孫なのだと、生きているうちに伝えられなくて、本当にごめんなさい。今おじいちゃんの隣にある、囲碁。最初の一手を、お父さんに打ってもらいました。続きを、天国で楽しんでください。ありがとう。愛してくれて。だいすきです。おじいちゃん。
平成18年12月18日 孫 葉月ひろな

 

そうして弔辞を終え、自分の席に戻るわたしを、東京からかけつけた母方の祖母が、小さく、誰にも悟られないように、聞こえないように拍手していました。おばあちゃん、久しぶりだね。どこに帰ったらいいかわからないわたしを、よく東京のおばあちゃんの家に泊まらせてくれた。ご飯を食べさせてくれて「食べなさい。若い子が太ってるのなんて、ちっともおかしくない」と言ってくれて。わたしは今思えば痩せていたけど、ひたすら太るのがこわくて。それでも食欲なんておさまらなくて。おばあちゃんのご飯が、本当に好きだった。わたしが電話で「どこに帰ったらいいかわからない」と言ったら「自分の家なんだから、胸はって帰りなさい」って言ってくれた。おばあちゃん。こんなお葬式の席で、拍手なんてだめだよ。大したこと言っていないし、正直に話しただけ。でも。ありがとう。

 

そんなお葬式で、なぜかその亡くなった祖父の妻である祖母が、なんだか頭がお花畑で。え?それ、おかしいよね?なんか、浮かれてるよね?あれ?悲しまなきゃいけない場面になったら、ちゃんと悲しんでる「フリ」してる。たぶん本当に悲しいんだけど、それでも。それは、明らかに、周りの空気を読んでいるからだよね?でも空気読みきれていないよ。浮かれてるもん。そりゃ大往生した方のお葬式は、悲しむことより、笑って話すことは多いよ。おじいちゃん80歳まで生きれたから、大往生だけど。でも、あなたの浮かれ方は、なんだか違う。なんだか違和感がある。それ、たぶんみんな、気づいているよ。

 

そんななぜか浮かれている祖母に、告別式のあとタクシーに乗っている時に「お前、あり得ない!」と、父が大声を出していたそうです。そうしてそれぞれの家路につき、はじめての九州の実家に来た、当時は関西に住んでいた兄と一緒にいた時、その父方の祖母からわたしに電話がかかってきて「恥をかいた。あんなタクシーの運転手さんが聞いているところで、お父さんは怒鳴った。ひろなちゃん………おばあちゃんね。もう、早く、お迎えが来てほしい………」と泣いているのです。「おばあちゃん!そんなこと言っちゃだめなんだよ!自分で死にたいだなんで、そんなこと絶対言っちゃだめなんだよ!」と、わたしは泣きながら怒りました。それを見ていた兄に「だって、だって。わたしも自分で飛び降りた。この手首も自分で切った。その他にも何回も自分で死のうとした。でも!わたしの関東の闘病仲間には、本当に死んでしまった人が何人もいる。前はリタリンが普通に処方されていたから、リタリン中毒で死んでいった人もいる。電車にバイクに乗ったまま自ら突っ込んで、亡くなった人もいる。病院でもみんなつらくて、死にたい、ってよく言ってた。その気持ちすごいわかる。けど!自ら死んでいいわけないんだ!それだけは、間違っていないはずなんだ………!」そう泣き崩れました。そんなわたしを「お前、ちゃんと生きれてるよ。誰よりも、精一杯生きてる」そう言ってくれました。

 

この7歳年上の兄は、確かに家庭内で暴力をふるっていました。しかし、それは誰かを傷つけたいのではなく、彼の「たすけてくれ!俺を、この暗闇から出してくれ!」と叫ぶ、悲痛な心の声でした。わたしたちは帰国子女で、なぜかお互い、同じ日本人なのに、帰国したこの日本で、差別を受けました。なんとかみんなと仲良くなりたいのに、ひたすら不器用だったわたしたち兄妹は、あらゆるいじめの対象になりました。そんなわたしたちは、ひたすら不器用なので、兄は暴力でその苦しみを訴え、わたしは精神を病むことで自分の世界に閉じこもっていきました。それしか出来なかった。そうすることしか、出来なかった。そんな兄とも、わたしが退学した全日制の高校生だった時から、同じ家に住んでいても3年以上言葉を交わすことはありませんでした。そんなわたしたちが、わたしが18歳の時に予備校の彼との別れの最後のきっかけになった両腕の深いリストカットオーバードーズをして自室で倒れている時に、最初にわたしを発見してくれたのが、兄でした。「ひろな!ひろな!しっかりしろ!大丈夫か!お兄ちゃんだ!お兄ちゃんだぞ!お前のお兄ちゃんだ!もう仲直りしただろ!お前の、お兄ちゃんだぞ!」と、わたしに言ってくれました。え?いつ、仲直りしたっけ………あ。この間、お父さんとお母さんに「ふたりが連絡をとれないと、私達が困る」って言われて、はじめて携帯の番号、交換したね。言われたからしただけだったのに、あれは、しぶしぶ教えてくれたお兄ちゃんは、あれが精一杯の仲直りだったんだね。それからも一度も電話もメールもしなかったのに。不器用だね。本当に、お兄ちゃん、不器用だね。わたしも不器用だからさ。お兄ちゃんの気持ち、すごいわかるよ。お兄ちゃん。わたしたち、また、幼い頃のように、仲のよかったわたし達に、戻れるのかな。あの時の救急搬送の救急車の中で、わたしはそう思っていました。その後兄は就職し、会社の寮に入り、もうすぐ大学生時代の時からの恋人との結婚を控えていました。あの仲直りから、あまり接点はないけど。お兄ちゃん。あなたがまたわたしを肯定してくれるなんて、夢にも思っていなかったんだ。この世界でたった1人の血を分けたわたしの兄は、ただひたすら、不器用だから。

 

そんな祖父のお葬式の、約5ヶ月後の2007年4月。わたしが家出をして、自分だけの「答え」を見つけて、再び世界に自ら出ていくようになってからすぐ、兄の結婚式で、わたしが祝辞を読むことになりました。身内に不幸があった時は、翌年でもお祝いごとは中止されるのが一般的ですが「おじいちゃんなら、喜んでくれるから」という結論が家族会議で出て、そのまま結婚式がひらかれることになりました。「読んでくれないか、祝辞。」そう兄に、お願いをされたのです。わたしは母が成人式の時に着た振り袖に身を包んで出席しました。

 

「今度は、親族の登場です!幼い頃から芸術肌だとご紹介を受けました。新郎の妹さん!お願いします!」

 

ん?わたしはいつから芸術肌になってしまったのだ。絵を描くことも楽器を演奏することも大好きだけど、どれも大したことなくて、今となっちゃどれもこれも極められなくて、ひたすら中途半端なのに。そんな慌てた心境で前に出ました。この結婚式にはおよそ400万円がかけられ、それだけ豪華で、わたしたち兄妹には幼い頃から馴染みの深い吹奏楽部に生演奏でBGMがお願いされていました。トランペット。サックス。ピアノ。どれもが、わたしと兄の、思い出の楽器です。

 

お兄ちゃんへ。あなたは本当に不器用で。わたしも不器用で。幼い頃に名古屋に住んでいた時に、わたしはお兄ちゃんと遊びたくて。でもお兄ちゃんは、友達と遊びたくて。そうしたら「お姫様ごっこしよう!」って言ってくれて。「何からする!?」とワクワクするわたしに「お姫様、お昼寝の時間でございます」って言い出す。「わかった!お昼寝します!」と横になったわたしを、その友達とあやしはじめて。寝たふりをしていたら、いつの間にかふたりの声が聞こえなくなって。目をあけたら、ふたりがそこにいない!お姫様本当にびっくりしたよ。わたしたちは、あまり顔が似ていない。それぞれの顔のパーツが、それぞれお父さんとお母さんが、全て逆になって生まれてきた。韓国の日本人学校でも「君たち、似ていないな」って言われていた。日本人学校はバス通学だったから、わたしはひたすらお兄ちゃんの隣に座りたかった。当時お兄ちゃんは中学生だったから「お兄ちゃん、だーいすき!」そう言いながら寄りかかるわたしを「恥ずかしいから、やめてくれ」って、嫌なんだよって表情をして窓の外を見ていた。そんなわたしたちは、ある時長い間、会話を交わすことさえなくなっていました。でも、幼い頃に、わたしがなけなしのお小遣いでプレゼントした、あの小さな茶色いお財布。ボロボロになっているのに、もうすりきれているのに、ずっと大切にしていてくれたことを、知っています。ただただ、不器用なあなた。よく自室にこもって、ヘッドホンをつけながら、電子ピアノに思いをぶつけていたのを知っています。そんなあなたの抱えていた孤独を、わたしは、たぶん、全部知っているよ。もうこの先の道は、俺には拓かれないのでは。そう思ったこともあったでしょう。そんなあなたが、たどり着いた「愛」。桜の季節に誓ったこの愛が、永遠に散ることがありませんように。そして、よしこお姉ちゃん。こんな不器用な兄ですが、わたしの、大好きな、自慢の兄です。どうか兄のことをこれからも、よろしくお願いいたします。そしてお兄ちゃん。また、あなたのピアノをわたしに聴かせてください。お兄ちゃん。結婚、おめでとう!妹の、ひろなより。

 

兄は、タキシード姿で、「わたしはあなたの孤独を全部知っていた」と言った時から、ひたすら下を向きながら目頭をおさえて、それでも涙がこらえきれなかったのか、その背中で泣いていました。「新郎、泣かされてしまいましたね」そう司会の方が言っていました。その結婚式で、最後に親族としてみなさんを見送りしていた時にすれ違ったメガネをかけた男性に「すごくよかったよ。泣かされた」と言っていただきました。きっと、兄の学生時代の友人なのでしょう。あの兄の苦しかった過去を知っているのかもしれません。理系だった兄と同じ雰囲気を感じました。

 

結婚式は大盛況で。食事もすごくおいしくて。ドレスも本当に素敵で。途中で吹奏楽部が「ルパン三世のテーマ」を奏でて。ああ、これ演奏したな。もうこれ、吹奏楽部のためだけにあるような曲だよね。そんなことを思いながら、新婦からご両親への手紙の伴奏を、兄がピアノでして。手紙が読み終わると同時に、きれいに終わるように兄は演奏して。あなたは本当にピアノが、すごく上手。わたしは、あなたのように、ひとつのことをこんなに極められなかったよ。少し羨ましくなりながら、親族の机の上に飾られた小さな祖父の写真が、笑っていて。しあわせだな。本当に、よかったな。お兄ちゃん、よかったね。そう思うわたしの隣で、東京の祖母が、つらそうな顔をしていました。何か、必死に我慢しているような。それを悟られないようにしているような。のちに祖母から打ち明けられるのですが、この時、わたしを幼い頃からひたすら受け止めてくれたこの東京の祖母は、パーキンソン病を、診断されたばかりだったのです。「孫の晴れ舞台で、こんなことを言ってはいけない」と、ひたすら身体の震えを、我慢していたのです。

 

この大盛況だった結婚式の数日後に、わたしのミクシィのページに、一通のメッセージが入りました。友達の友達なのかな?でも、どこの誰かはわからない。ハンドルネームを「たくや」と名乗っていました。

 

今、病気抱えているの?学校にも行けないのかな。それだったら毎日つまらないよね。よかったら、メッセージ交換しませんか?

 

そう書かれていました。今だったら「ただ出会う気満々の男性からのメッセージ」と、受け止められるかもしれません。わたしも今だったら、草を生やしながら無視すると思います。しかし当時は今ほど出会い系サイトもなかったし、スマホもないのでマッチングアプリもありませんし、当時のミクシィは自他ともに認めるとても健全なSNSでした。しかもわたしはまともな社会経験のあまりない、世間知らずな小娘です。普通に「ありがとう」とメッセージを返し、それからミクシィ上でメッセージの交換が始まりました。「たくや」と名乗っているけど、本当は「岩本勇気」という名前なのだと。26歳で、最近大きな失恋をしたばかり。次の恋はしばらくしなくていいと思っていること。料理が好きなこと。ビリヤードが好きなこと。打ち明けたわたしの自宅からはたぶん地下鉄と電車を使って30分ぐらいの距離に住んでいること。たくさん自分のことを話してくれて、「ビリヤードしてみたいな」と言ったわたしに「じゃあ今度、一緒に遊びに行こうか」と言ってくれて。「行きたい行きたい!わたし最近ようやく毎日が楽しくてさ!もっと毎日楽しくしたい!わたし、欲ばりだから!」そんなメッセージを交わし、メールアドレスを交換しました。でもそのメールアドレスを交換した直後に、東北のひろなから電話がかかってきて、長電話をしていたわたしは、その岩本勇気さんからのメールにすぐに返せなくて。「メール送ったけど、届いているよね?」というメールが来ていて。やっちまった………!すぐに返さなきゃ不安になるよね………!と、慌てて返して。そのメールのやりとりで、お互いの写メを交換しました。とても素敵な人。どこかNEWSの小山くんに似ているような。そんなわたしはなんとすっぴんの写メを送りました!F田先生に写真を撮られる時に、すっぴんだから嫌だって言ったのに!だってその頃は、毎日まともにお化粧もしていなかったから。わたしはもともと、ギャルメイクが好きで。肌は一切焼かず、なるべく美白に気を使ったギャルメイクが好きで。浜崎あゆみさんみたいな感じを目指していて。当時はまだつけまつげが普及していなかったので、ひたすらマスカラを重ね塗りするんだけど。むしろこの濃いお化粧しなければ人前に出れない、ぐらいだったのに、この頃は「そろそろ薄いメイクにした方がいいかな?」って思っていたし、何よりそんなメイクでさえまともにしていなかったので!

 

そんなこんなで、明日はその岩本勇気さんと遊びに行く。九州ではじめて、誰かと遊びに行く。「いつにする?」って言われたから、「この日と、この日なら会える……どっちがいいかな?」って言ったら「それなら、両方遊ぼう。迷うぐらいなら両方楽しい日にしよう。俺は次の仕事は、ちょっと静岡まで行くことになったから、しばらく休みなんだよ」と言ってくれて。その頃のわたしにとっては、誰かと遊びに行く日程を、両方楽しい日にしよう、って言ってもらえたのは、生まれてはじめてで。こんな人いるんだな。なんでかな。なんで。こんなに胸が、高鳴るんだろう。ドキドキした自分の胸の鼓動を感じつつ、(おさまれ!じゃないと寝れない!寝ないとファンデのノリが悪くなる!)と、それすらも楽しみながら、ベッドの布団にくるまっていました。最近よくおでかけするけどさ。めっちゃ楽しいんだけどさ。九州のマルキューみたいなところは、東京のマルキューより広々してて、見て回るだけでも移動がしやすくて。街が狭いから、だいたいのところなら、自転車で行ける距離にあるし。程よく田舎で、程よく都会で、居心地がいいんだ。なのに、スタバやドトールに入る度に、なんだか、さみしかったんだよ。なんでかな。わかんないんだけど「わたしの目の前のこの席に、誰か一緒に居てくれたら。」そんなことばかり、考えていたんだよ。楽しみだな。明日は、どんな1日になるのかな。あの服着ていこう。この間買ったばかりの、ビームスのゆるいお尻まである黒いトップス。自転車乗るから、スキニー履こう。最近少し太ってきたから、そのコーデが一番いいな。そんなワクワクを抱きしめながら、眠りにつきました。2007年4月の、海に家出をしてから数週間後の、26日の夜でした。

 

はい、カーット!ここまで!

ようやく出会った!ようやく出会った!……………か!?本当に出会ったか!?まだ知り合っただけでご対面してなーい!でもなんだか達成感。ふたりがようやく知り合ったから達成感。今回一時的に時はさかのぼったし、また「このエピソード本当に要るん?」ってみんななったと思うけど、それでもエピソードは最小限におさえました…………!ぶっちゃけ飛ばしちゃいけないエピソードあった!あった!そこ飛ばしちゃだめ!カーット!って場面あった!でももう今回はそのまますっ飛ばして更新ボタン、ポチります。書き加えるのがめんどうだという理由だけで。まぁいずれそのエピソードは説明出来るはずだから、大丈夫。いけるいける。

 

小娘と一緒に時をかけてくれてありがとう!

岩本勇気さんと、この先どうなる…………!?

彼は本当に、出会い厨じゃない…………!?

そんな疑問すら持っていなかった当時の小娘葉月ひろな(22)!

とりあえず、こんな誘われ方をネット上でされたら、お前ら絶対についていくな。

十中八九出会い厨でセックスしか頭にないから。

 

ではまたこの場所で!またにー!誤字脱字リンクミスあったらあとで直すー!

 

葉月ひろな

Twitter @hazukihirona

hazukihirona@gmail.com

 

【第四章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」

だんだんこの連載を書くのがなんとなく「めんどくせぇ」って思ってきてしまったわたしのめんどくさい気持ちを誰か殴ってください。本当にこのまま書いていくと100章ぐらいなりそう。それわたし書ける?それ誰か読んでくれる?いや、ブログなんてオナニー。っていうのがわたしの持論だけどさ。別に誰も読んでくれなくてもオナニーするけどさ。見られた方が興奮はするけど、別に誰かに見てもらえなくてもオナニーは出来るしさ。でも100回もオナニーしたら、どんどん気持ちよさはなくなるよね?あまりに何回もオーガズムを感じたゆえに亡くなった方もいるらしいよ。まだ死にたくない。自分で飛び降りしてサイボーグになった人間が言うことじゃないけどさ。絶対途中から気持ちよくなくなるよね?だんだんオナニーするのも飽きてきたよ。自分が一番気持ちよくてナンボなのに。でも「最後の記事で何を言いたいのか」を改めて考えていたら、なんだか涙が止まらなくなる現象が起きたので、がんばって書きます。がんばってオナニーし続けます。それによって天に召されるなら本望!こんにちは。オナニストサイボーグ葉月ひろなです。

 

はじめての方はこちらから

【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第三章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

↑サイボーグになった経緯とそのサイボーグによるオナニーです。

 

スープの冷めない距離で。

わたしはその後、職も持たないのに、再び一人暮らしをすることになります。「生活費は私達が出す。夕飯を食べに来てもいい。でも、私達とあなたは、一緒に暮らしてはいけない」と、母に言われたのです。え?あなた、実の母だよね?わたしの生みの親だよね?今までも、わたしが入院することがあっても、生まれた時から一緒に暮らしてきたよね?たくさん迷惑はかけたけど、それでも。家族4人で、闘ってきたよね?戦ってきたよね?兄の家庭内暴力から始まり、なにもかも家族4人で乗り越えてきたはずだったよね?今はもう兄は一緒に住んでいないし、代わりにいるのは猫だけど。でも。わたし、また、お父さんとお母さんと一緒に暮らすこと、楽しみにしていたんだよ。あなたたちは、いつもいつも「節約」が好きだったでしょ?たぶん、うちは裕福な方だよ。父の勤めている航空会社も一流企業。あなたもそんな一流企業に勤めていた元スチュワーデス。たぶんお給料は、かなりいい方だよ。それでもひたすら「節約」が好きだったじゃん。節約こそ正義だったじゃん。なのに、なんでそんなお金をかけるの?わたしの指定されたアパート、この実家の目の前。スープの冷めない距離とはよく言うけどさ。こんな近所で核家族が更に分裂することに、何か意味があるの。

 

それでも逆らえない目の前のアパートでの一人暮らし。わたしは貯めていたお金で、ひたすら好きなインテリアを買いました。当時はお姫様みたいな部屋が好きだったわたしは、部屋をピンクとフリルで埋め尽くしました。なぜかそうすると、このアパートに「帰ってきたい」と思えるようになったのです。でも。実家で夕飯をともにすることがあっても、その時に喧嘩をしてしまっても、わたしは、やっぱりお父さんとお母さんと一緒にいたくて。一緒に住みたくて。ある「嘘」をつきます。とんでもない嘘でした。実際にその被害に遭われた方からしたら、たまったもんじゃないでしょう。「アパートの前で、男性に襲われた」と、嘘をついたのです。

 

後に、その嘘はもちろんバレます。でも、目の前の実家に帰ることになりました。そんな嘘をついてまで、そんな失礼な嘘をついてまで、わたしは両親とともに居たかったのです。そうでもしないと、一緒に居られないと、思ってしまったのです。主治医には話していましたが、なぜそんな嘘をついたのかは話していませんでした。後に両親が精神科クリニックに乗り込み「なんであの子はそんな嘘をつくんだ」と主治医に訊いたらしいです。「一緒に、住みたいんじゃないですか」そう主治医は答えたと言います。わたしの主治医は、あまり「断言」というものをしません。そしてあまり「アドバイス」もしません。その患者本人に、その家族たちに、「断言」する「アドバイス」をしません。その人たち自らが、答えを見つけるために。

 

生まれてはじめての昼寝。

それからの実家での居心地の悪さは感じていました。なので、落ち込みのひどい状態が続いていました。自業自得とはいえ。なんで家族が一緒に暮らすことが、そんな嘘をつかないとかなわないのか。だいたい食事も自室でひとりで済ませます。もちろんおいしくない。そんな中で、あの総合病院のロマンスグレーの整形外科医の「半年後な」という約束を守ることが、出来ませんでした。半年後のMRI検査に行ける気力がなくなっていました。なんとか行けるのは、地下鉄で数駅の精神科クリニック。ロマンスグレーの先生どうしてるかな………F田先生、元気かな………そう思っても、一度機会を逃したわたしは、どんどん再びあの総合病院に行く「勇気」を、失っていきました。

 

そんな中、ある日の昼間、自室で生まれてはじめての「昼寝」をしました。わたしは幼い頃から、何故か昼寝が出来なかったのです。「昼寝をしてきなさい」と母に言われても、そんなん出来ない。数時間自室で息をひそめてから「寝てきたよ。すっきりした」と嘘をついていました。言われた通りにしないと怒られると思ったのです。もしかしたら幼い頃から常に交感神経が優位で、副交感神経を働かせるのが苦手だったのかもしれません。家の中が常に緊張していたから。兄の家庭内暴力が始まる前から、そもそもわたしが生まれる前から、父はよく浮気をしていたそうで、そんな両親のピリピリとした空気を感じとっていたわたしは、幼い頃から「吃音」を持っていました。そのピリピリとした空気を感じとった途端に、顔を真っ赤にするまでがんばっても、言葉をなかなか発せなくなっていたと母は話していました。この吃音でかなり恥もかきましたが、わたしの中で「この発音の言葉から話せば、わたしの言いたいことと同じこと、または同じようなことが話せる」という工夫を重ね、中学生以来はこの吃音を悟られることはあまりありませんでしたが、それだけ、あの家庭は交感神経を常に優位にしなければ、成り立たない家庭でした。

 

そんなわたしが何故かいきなり副交感神経が優位になり、睡眠薬も飲まずに昼寝をしました。ベッドの横には緑色のカーテンがありました。ぼやーーーっと目が覚めて、あれ………寝てた………こんな明るい時間に………と思ったら、その緑色のカーテンがバサバサと乱れて動き回って、あれ?なんか、おかしい………窓は開いていないはずなのに、なんでこんなにカーテンが乱れて動いているの………そう思っても、身体が動きません。金縛りになっています。動けない。こわい。ここから逃げたいのに。それでもまだ頭のぼーっとしているわたし。後ろから誰かに抱きしめられる感触がしました。「…………誰」そう言ったわたしに、女の声がしました。

 

「ひろな、だよ」

 

そうわたしの名を名乗る女の声は、まるでわたしをあざ笑っているような、あなた、そんなこともわからないの?クスクス、というような表現がぴったりの、わたしの名を名乗る、わたしの声なのです。なに、これ。そう思った瞬間に、金縛りがとけました。うしろを振り向いても、誰もいない。カーテンだって乱れていない。窓も開いていない。わたししか居ない自室。なに、なに?確かにあの後ろから抱きしめていた女は、その女の声は、わたしだった。でも。わたしの性格とは、違うような。正反対のような。そんな声だった。

 

この体験の謎はすぐには解明されず、主治医に診察で打ち明けたら、それまでにないぐらいの速さで万年筆を動かしカルテにその体験を詳しく書いていましたが、わたしは、あれは「ドッペルゲンガー」だったと思っています。実際に目にしたり実際に体験すると、相当ヤバい精神状態だといわれるものです。そして、その「ドッペルゲンガー」は、わたしの、この世に生まれることのなかった「姉」だったと思っています。わたしの「ひろな(仮名)」という名は、本当はその姉が生きて産まれていたら、その姉に名付けられるはずだったのです。その姉が産まれていたら、あなたは「ひろな」ではなかったと前に言われていました。そんなわたしの中の結論が出るのは、この日から10年以上先のことです。この時は、ただひたすら「謎」でした。

 

わたしは、わたしは。

そんな精神状態が乱れまくってる中で、ある日お風呂に入り、バスタオルを身体に巻きつけて自室に戻ろうとした時に「なに、その足!」と、母が大きな声を出しました。え?と思って足を見ると、左足のふくらはぎが、肉割れしているのです。急激に体重が増えたりした時に、皮膚がその体型の変化についていけず、妊娠線のようなものが出来る現象です。でもその仕組みを知らないわたしは、近所の皮膚科に行くことになります。「体重の管理が出来ていない」そう言われました。そりゃ自室にこもってばかりだったからな。体重の変化にまで気がまわっていなかった。その上でその皮膚科の先生は、写真を撮らせてくれと。他の患者への戒めにすると。そしてわたしの顔の肌荒れも勝手に診ようとし「今働いているのか?無職か。それなら職場でのストレスはないな」と言ってきました。わたしは、なんだか、この皮膚科で自尊心とプライドをズタズタにされてしまい、帰ってから自室の家具をこれでもかと壊し、投げ飛ばし、その頃していた漫画の二次創作で小説を書く際に使っていた大切なパソコンのモニターでさえ傷つけ、そのまま、家出しました。なんでわたしはこんなにうまくわたしを操縦出来ないの。そんなわたしは、一体どこにいたらいいの。その頃、その漫画の二次創作活動を通して、ある大切な友達が出来ていました。わたしより2歳年上で、東北に住んでいるとのこと。この頃、わたしは22歳になっていました。この漫画の二次創作は、その漫画があまりに好きでインターネットで検索をかけたら、二次創作活動のページに行き、その小説のランキングサイトにたどりつき、そこのランキングサイトに登録しているサイトさんの小説を全て読み「なんて面白いんだ。こんな世界があるんだ」とワクワクが止まらず、主治医に話したら「自分でもやってみたくはないか」と言われ、もちろんです!と思い、飛び込んだ世界でした。この頃ようやく「パケホーダイ」を使い始め、携帯小説サイトとして二次創作活動のサイトを運営し始めました。そこで以前から「この人の書く小説、すごく好き」と思っていたその2歳上の女性から、ある日わたしのサイトに「あなたの書く小説本当に好き。そこの風景が本当に目に浮かぶ」とメッセージをいただき、「わたしも、あなたの小説が好きなんです!それがきっかけになったぐらい!」と交流が始まり、よく頻繁に電話もしていました。その女性の名乗っていたハンドルネームが「ひろな」でした。わたしは「葉月ハルカ」と名乗っていました。そんな東北のひろなに連絡も入れず、わたしは家を飛び出し、海に向かいました。別にどこに行きたいわけじゃない。どこかに行きたいわけじゃない。ただ。この海に行きたい衝動が、おさまらない。2007年の4月のことでした。

 

海についたら、もう真っ暗で。そんな真っ暗な海岸で、恋人が待ち合わせをしていて。思い出すのは、予備校の彼。恋愛至上主義のわたしが、もう2年間恋していない。あなた以上に素敵な男性、きっといない。きっとそんな人いない。もう一度会いたい。もう一度会いたい。ただ、あなたに会いたい。あなたの歌うラルクの「Driver's High」が聴きたい。大気圏をぶっ飛ばす勢いで、もう一度歌って。そしてその歌の歌詞の最後にあるように、来世でまた逢おうよ。その前に。今世でまた、会おうよ。

 

そう泣き崩れながら、海岸の浜辺に打ち上げられていたヨットの下で、タバコに火をつけました。今じゃ、タバコを吸えるようになってしまった。予備校の彼も、タバコは吸っていた。けれどわたしはあの時はタバコはまだ覚えてなくて。予備校の彼のタバコを奪ってちょっと吸い込んだことはあったけど、ひたすら煙たくて喉が熱いだけだったのに、今じゃこうしてタバコを吸っていて。ひとりで。あなたの横じゃなくて。あの予備校で、喧嘩中にタバコを吸いに席を立ったあの時のあなたの気持ちが、わかるよ。今ならわかるよ。今じゃないとわかんなかった。落ち着きたかった、だけなんだ。でも。今、外なんだけど。野宿は出来るだけしたくなかったんだけど。このヨットの下、落ち着くな。なんでかな。わたしだけの、安全な場所な気がするんだよ。

 

そうして約2日間、野宿をしながら、途中でみすぼらしいおじいさんに車でさらわれそうになりながら、コンビニとファミレスを転々とし、約30キロ離れた街まで来た時に、いきなり自分の中に「答え」が見つかりました。

 

わたしの中に、もうひとり、わたしがいる。

 

そのわたしの気がついた「もうひとりのわたし」は、なんだか、幼いのです。そして、自分の感情をうまく言葉に出来ず、どうしたらいいかわからず、泣いているのです。「どうしたの。なんで泣いているの。本当は、どうしたい?」そう問いかけると「わたしを、コントロールして」と言ってきます。うん。そうだね。自分じゃうまく操縦が出来ないもんね。その気持ちすごいわかる。わたしいつもそうだから。あなたは幼いから、余計にわからないよね。じゃあ、わたしがあなたを操縦する。操縦席代わって。あなたはわたしの後ろにいて。手を握っていていいから。帰ろう。あなたを、お父さんとお母さんに紹介するよ。わたしがあなたを連れて帰るから。かなり遠くまで来たし、もうお金全然ないから、歩いて帰るしかないけど。それでも必ず連れて帰るから。おいで。一緒に、帰ろう。

 

そうして、約30キロの道のりを、道路標識を頼りに、なけなしのお金で買った自販機のホットの紅茶をその子に飲ませながら、約丸1日かけて帰りました。

 

帰ると捜索願いが出されていて、わたしの帰宅とともに捜索が打ち切られ、怪訝な表情の両親に、「わたしの中に、もうひとりいる」と話しました。その子は感情がうまくコントロール出来ない。それゆえに自分自身をうまく操縦が出来ない。けれど。わたしが表に出ている時は、一社会人としてふるまえる。だからみんな、「どっちなの?どっちが本当の葉月ひろななの?」ってなる。記憶は共有されているし、乖離をしているわけではない。ただ。わたしは、ふたりいる。

 

それに少し納得をしてくれたのは、母だけでした。ひたすら現実主義・合理主義の父は「お父さんには、よくわからない」と言います。このあたりは男と女の脳の違いかもしれません。女性は、男性よりも精神世界に重きを置くから。

 

この答えを診察で主治医に打ち明け「よく見つけた」と言っていただき、その時に「この人は、こうして自分で答えを見つけるのを待っているんだ。待っててくれているんだ」そう確信し、わたしの「幼いわたし」の操縦席を変わる日々が始まり、「どうしたい?あなたは、今、どうしたい?」と問いかける日々が始まりました。ある日その子は「おでかけがしたい。」と言います。そっか。じゃあ行こう。自転車で行ける距離に、東京の渋谷みたいなところがあるよ。マルキューみたいのもある。お茶でも飲みに行こうか。スタバもあるよ。ドトールもある。一緒に、自転車に乗って行こうよ。今のわたしなら、もう、この腰の爆弾抱えながらでも、自転車乗れるよ。

 

自宅にこもってばかりだったわたしが、ようやく自ら、また世界に出ていく毎日が始まりました。春の日差しの中を毎日水色の自転車で外に出かけました。東北のひろなに「ずっと連絡出来なくてごっめーん!家出してた!」って連絡を入れたら「あんたは〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」って、泣きながら言ってくれる。「これでも食っとけ!」って、東北名物の笹かまぼこ送ってきてきれた。うまい!何これうまい!なぜか中学生の時の男友達から連絡が来て「ミクシィやらん?めっちゃ面白いよ」って言われた。ミクシィ?なにそれおいしいの?わたし携帯サイト運営しているから、更に日記を書く場所の必要性は感じてないよ?「いいからやってみろって」えー…………気が向いたらね。「いいからやれって」お前なんかしつこいな。そんなしつこい奴だったっけ。わたし、中学生の時、あんたのこと好きだったよ。「知ってるよ。俺もだよ。明らかに両思いなのに、お前あの不良グループに目移りしたじゃん」あ、バレてた。だってかっこよかったんだもん。「いいから、ミクシィ、やれ。」わかった。お前がそんな言うなら、きっとミクシィはおいしいんだ。

 

そうして始めたミクシィ。当時はミクシィは招待がないと出来ませんでした。よくわかんない。自己紹介?なんて書けばいいの?てか、友達の友達とか書いてあるけど、つまり、友達なわけじゃん?今更隠すこともないし。正直に自己紹介しようっと。

 

境界性パーソナリティ障害

うつ病

学歴ゼロ!

無職!

葉月ひろなです!

 

そんな感じのことを書きました。

 

そのミクシィで、それからの10年をともにするパートナー、勇気さんと出会うとも知らず。なんかよくわかんない。ミクシィひたすらよくわかんない。わたしは携帯サイトの二次創作活動をこれからも楽しむよ。夢小説、めっちゃ面白いんだぜ。

 

みんな!よかったね!

よかった!よかった!ようやくここまで書けた!ようやく勇気さん出て……………きてねぇーーーーーーーー!ちゃんと出ては来てない!出てくるよ!みたいな感じしか書けていない!この後すぐ!続きはCMのあと!チャンネルはそのまま!みたいな感じしか書けてない!でも、ようやくここまで書けた!よかった!これでも今回かなりエピソードはしょったよ!わかるよね!?わかるよね!?【第一章】〜【第三章】まで律儀にページめくり続いてくれた方はわかるよね!?褒めて!!!!!!!!!

 

今となっちゃ誰もがソウルメイトであることは一目瞭然すぎる。この後ちょっと悲しいエピソードにも繋がっていきますが、誰もがソウルメイト。あなたたち全員、一生愛す!そしてわたしのソウルフードの1つは笹かま!笹かまぼこ!あんなうまい食べ物!そしてミクシィミクシィは、おいしかったよ!

 

それでは、またオナニーしにきます。腰が爆発する気配もない。あの後睡眠薬飲んでも危篤状態にはならない。たぶんこの先もならない。わたしがまた来なかったら、オナニーに飽きたか、何かしらのかたちで天に召された時です。その時は「もうお前の命は役目と役割ちゃんと果たした」って宇宙に判断された時。わたしはそれには抗わない。わたしの役目と役割って何ですか!?それが未だにわからないことにも、抗わない!

 

またこの場所で会いましょう。

飽きない限り、天に召されない限り、わたしはここにいるよ。

 

葉月ひろな

Twitter @hazukihirona

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【第三章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」

おはようございます。サイボーグ葉月ひろなです。昨日わたし危篤状態になりまして。サイボーグが危篤状態?それただ壊れるだけなんじゃないの?って思うと思うのですが、一応わたしまだ人間なので、一応、死ねるんですよ。いつものように就寝前に睡眠薬を飲んだら、何故か目の前が真っ暗になりまして。電気点けてんのに目開けてんのに真っ暗にオートでなってって。立った状態で睡眠薬を飲んでそのままベッドに行こうと思っていたの。すっごいめまいで立ってらんない。別にオーバードーズしたわけじゃないのに、何故か目の前真っ暗。ちょっと見えてきたかなって思ったら、すごい耳鳴り。ザーザーいってる。ザーザー音がなる耳鳴りは生まれてはじめてだったので、ひたすら恐怖で。なんで?なんで?ついにお迎えきた?あまりに長い間そんな状態が続いたので、死を覚悟しました。救急車は呼びたくない。もうこれ以上医療関係者巻き込みたくない。前回の記事をアップしたばかりだったのもあって、サイボーグはなんとかベッドに横たわり、死を覚悟しました。意識も気を抜くと吹っ飛びそう。仮に救急車呼んでも、一人暮らしのわたしは自力で玄関の鍵を開けることは出来ない。寝る前だからチェーンもしめた。わたしの家には猫しかいない。猫の手を借りても開けられない。ごめん、ママ、死ぬしかないかも。あなたの手が玄関の鍵とチェーンを開けられたら………ってこの子残して死ぬの?そんなんでわたし死ねるの?生きなきゃ!でももう死にそう。どうしよう。友達に電話かける?でもこんな危篤状態で電話かける?みんな飛行機や新幹線使わないとわたしの家には来れないのに?そんなわたしの危篤状態受け入れられる?わたしだったら受け入れられない。大人しく死ぬしかない。でも愛猫!でももうママ死ぬしかない。自分の意志とは関係なく死ぬしかない。あ!元夫!あいつならきっとこんなわたしの危篤状態受け入れられる。だってあいつはこの世界で最も勇ましく最も勇敢でわたしのこんな危篤状態にも最も慣れてる。高速使えばうちにも来れるだろうしあいつならわたしがヤバくなったら交通ルールしっかり守った上で周りに迷惑かけることなく高速すっ飛ばしてくる。そんなんわたしが一番よく知っている。わたしはその高速代とガソリン代をしっかり返す。仮に生活費だけでいっぱいいっぱいでもあいつはわたしが全額返すまで待っててくれる。電話してる間もわたしはきっと意識繋ぎ止められる。あいつなら絶対わたしの意識繋ぎ止めながら電話する。ハンズフリーにしてその上でちゃんと律儀に交通ルール守る。あいつほど正義の塊いない。元夫ー!今電話出来るー!?ってLINEした。律儀にLINEした。めっちゃ時間かけてその一言書いた。こう書けば電話出来るならあいつはかけてくる。安心してそうして意識を手放しました。何やってんだわたし!朝になって元夫から「ごめん、寝てた」ってLINE返ってきました。事情を説明して「ちゃんと意識手放してちゃんと眠ってちゃんと目覚めた!」って返しました。よかった。ちゃんと目覚めた。サイボーグは壊れなかった。わたし、今日も、生きてます!こんな風にいつ死ぬかわかんないから、がんばってこの連載の続き書きます。いきなり更新止まったら、サイボーグがついに壊れて天に召されたのだと思ってね。わたしはこの間違いだらけの人生、最後まで間違いながら精一杯生きます!

 

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【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

↑サイボーグになった詳細が書いてあります。

 

総合病院を卒業して。

総合病院を退院して、医療用コルセットを身に着けながら、日常生活が始まりました。最初は実家に泊まって、でもわたしは向精神薬睡眠薬を飲まなければ日常生活が送れないので、実家のそばにある地下鉄から行ける精神科クリニックに行きました。一時的な通院です。院長先生が診てくれることになりました。まだ、紹介状もないのに診てくれました。精神科の転院は、基本的に以前の病院からの紹介状がないと出来ません。わたしは総合病院では紹介状をもらってこなかったし、わたしのかかりつけとする精神科は関東のままでした。それでも診てくれた精神科クリニック。街の中に、まるでその街に自然に溶け込むように、一軒家のような造りになっている、それでもとてもきれいな、小さなクリニックでした。医療用コルセットを身に着けたまま「自分で飛び降りました」と言いました。その院長先生は、偶然にも、日本の精神医学のある特定の病の分野で、有名な人でした。もちろんわたしはその事は知りません。その院長先生は数多くの論文を発表し、その特定の病の治療について、日本の精神医学界を引っ張ってきた方でした。

 

程なくして関東の自分のアパートに戻りました。でも何故かその後関東の精神科に入院しました。わたしが17歳の頃からお世話になっているかかりつけの精神科の入院病棟です。なんであの時再び入院したんだろう?当時はかかりつけのその精神科から処方される薬の量が無駄に多かったので、ところどころ記憶がありません。

 

その開放病棟の精神科に入院しながら、それまでの20年の人生を振り返っていました。わたしは父が転勤族の家庭だったので、海外を含め、たくさん自分の故郷があります。そんなわたしが一番長く身を置いたのが、日本の関東でした。こんなに長く1つの地域にいた。関東間でも何回も引っ越したけど、わたしの今の人間関係はほとんど関東で成り立っている。たくさんわかり合った。そうして、たくさんすれ違っていった。何故かわたしは幼い頃から人間関係がこの世界で一番苦手だった。幼稚園の頃から激しいトルネードのような人間関係しか築けなかった。そのトルネードを巻き起こしていたのは、他ならぬわたしだった。たくさん振り回した。たくさん手を握って、握られて、たくさん離されて、たくさん離してきた。今のわたしに、何が残ってる?この一番長く住んだ関東の地。いつからか、ひたすらみんなは先に進んで、わたしはひたすら立ち止まって。今、ここにいる。予備校の彼。そんなひたすら立ち止まるわたしを、あの人は、たくさんの光で照らしてくれた。嘘も1回もつかなかった。わたしの人生で唯一、わたしに嘘をつかなかった。最後の最後まで、偽りなく向き合ってくれた。あの人、だけだった。

 

たくさん、この関東には思い出がつまっている。でも。わたし、もう、ここから離れたいな。幼い頃から、引っ越す度に、わたしの中ではいい意味で「リセット」されてきていた。新しい土地に行くことで、いい意味で自分の人生をリセットしてきた。リスタートしてきていた。わたし、もう、リセットしたい。ここから離れて、人生をリセットしたいよ。もう、思い出の場所に行く度に、あなたを、予備校の彼を、思い出したくないよ。

 

そうして、最後の転勤を「年老いた両親の面倒をみたいから」と、故郷の九州にしてほしいと申し出て、九州に引っ越していった、父と母のいる九州に行くことを決めました。ちなみに、母の故郷は関東です。そんな母方のおじいちゃんとおばあちゃんとは、離れちゃうけど。予備校の彼との思い出の地から離れたい。その当時の自分にとっては、あまりに長く居続けて、あまりに失敗ばかりしてしまった、ひたすら間違い続けた、この土地から、離れたい。

 

そうしてアパートの契約を解除し、引っ越しの荷造りは引っ越し業者さんに「お任せパック」で全てお願いし、その精神科の入院病棟を退院した足で空港に向かい、九州への飛行機に乗りました。わたしの父は航空会社に勤めていたので、その家族は「他の乗客の見本になるように」という約束のもと、空席があれば、ありがたいことに日本国内は無料で乗れるのです。確か回数制限はあったと思います。なのでわたしにとっては空港も1つの自分のホームだったし、飛行機に乗ることも慣れていました。日本国内でも、よっぽど近くない限り、ほとんどの移動手段は飛行機です。それが一番、お金がかからないから。

 

再び降り立った、九州。

そうして九州の地に降り立ちました。実家に身を寄せました。実家といっても、わたしたち家族は何回も引っ越してきたので、多くの人が一般的に捉えている「実家」の概念とは、少し違うかもしれません。実家だけれど、その家で生活をするのは初めて。総合病院を退院したあとに一時的にお世話になった精神科クリニックに通院をお願いしました。なんだか、あの院長先生に、診てもらいたい。そう思いました。その院長先生との出会いが、その後のわたしの長い闘病生活に多大な影響を与えることになりました。その街の中に溶け込むように佇んでいる小さな精神科クリニックの院長先生が、今の34歳のわたしの主治医であり、わたしにとっての、かけがえのない「お父さん」です。

 

でも。実際に九州の地に住み始めたわたしにとって、その環境の変化すべてが、大きなストレスになりました。関東では移動手段は電車が一般的ですが、わたしの降り立った土地はバスが一般的でした。なので、定刻通りに目的地に着けることはあまりありません。また【【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】にも書きましたが、一番慣れないのは、言葉使い。当たり前だけれど、みんなその土地の方言で話している。総合病院でもロマンスグレーの整形外科医はゴリゴリの博多弁だったし、看護師さんたちも若い世代に引き継がれた方言で話していたし、わたしの九州の祖父母も昔ならではの方言で話していました。今の若い世代では使わない方言でも話していました。だから、何を言っているかわかる時とわからない時がありました。「ばってん」とか。これは今の若い世代が使うことはあまりないのですが、当時のわたしにとっては「〜だけん」だとか「〜と?」とかも、文脈から意味を推測するしかありませんでした。父も上京してからは標準語で話すようにしていたので。そして「〜だけん」「〜だけん」と会話をしながらすれ違う人たちが、まるで喧嘩をしているみたいに感じていました。実際に頻繁に耳にすると、なんだか乱暴な印象を受けてしまったのです。家の近くのコンビニに出かけるだけでも、まるでみんなが喧嘩している。そんな感覚でした。そんなこと、本当にないんだけど。

 

そして、通院をお願いした院長先生に「飛び降りをしたばかりなのだろう。今は、自宅で療養をしなさい。精神科を退院したばかりだから、診察は週に2回。僕は退院をしたばかりの患者は週に2回に診る」とおっしゃってくれました。一応、この時が初診扱いです。でも。当時多くの精神科がそうであったように、初診の際は「それまでの自分の出生や人生での出来事を、全て話す」とこから始まるのはずなのです。そして、それは本当に苦痛なのです。わたしにとっては苦痛以外の何者でもありませんでした。なんで、こんな辛い出来事を、全部思い出して、話さなきゃいけないんだ。精神科にかかる上で患者の自己紹介としてはそれは普通のことかもしれませんが、わたしにとっては苦痛な時間なのです。わたしはそれまで何回も転院を経験していました。様々な精神科を、藁をもすがる思いで訪れました。その度に長い自己紹介で自分のそれまでの生い立ちを話していました。それが普通のことだと思っていました。なのに。この院長先生は、そんなこと話させない。そんな時間を設けない。こんな病院あるんだ。そう思いました。

 

初診の際は、だいたいが、身長と体重と血圧を測ります。その後の治療において、その数値の変化を参考にするためかもしれません。医療用コルセットを身に着けたまま、看護婦さんに身長を測ってもらい、体重計に乗りました。「コルセットとジーパンの重さ、引きますね」とてもかわいらしい看護婦さんがそう言ってくれました。口調もやさしくて、きれいな長い黒髪で、とてもかわいらしい顔立ちで。わたしより年上なのはもちろんわかりますが、なんだか、とても安心しました。それまで白衣に身を包んだ看護婦さんしか見たことのなかったわたしは、私服にエプロン姿の看護婦さんは、とても新鮮でした。そういえば、院長先生も白衣を着ていない。このクリニックは、なんだか。患者と医療関係者の間に感じられる距離が、とっても近い。

 

わたしのもう1つ持っていた病。

その、なにもかもが「はじめて」と感じる小さな精神科クリニックで、わたしは他の病を診断されます。もちろん「うつ」も持っています。うつ病を抱えていることに間違いはありません。だけれど。わたしの起こす行動には、うつ病だから、だけでは説明の出来ないことが、あまりに多い。それはだいぶ前から感じていました。精神科病棟に入院しても、他のうつ病の患者さんとは、わたしはちょっと、違う。そんなわたしに「境界性パーソナリティ障害」という病名が診断されました。今ではそんな○○パーソナリティ障害、と広く呼ばれるようになりましたが、その当時は境界性パーソナリティ障害は「境界性人格障害」という呼び名が、一般的でした。もちろん人格そのものに障害があるわけではないし、そう誤解を招くことが多いことから、わたしがこの病名を診断される少し前から、○○人格障害を○○パーソナリティ障害、と呼ぶようにガイドラインが訂正されました。「パーソナリティ・ディスオーダー」という英語での表記に基づきます。境界性人格障害は英語では「ボーダーライン・パーソナリティ・ディスオーダー」です。でも、まだちゃんと広まってはいない。だいたいの人が「境界性人格障害」と呼びます。統合失調症も、当時は精神分裂病という病名で診断されたぐらい、誤解の招く病名であることが多かったです。そして医療関係者やその患者の間では「境界性パーソナリティ障害」は「ボーダーライン」や「ボーダー」という呼び方をします。

 

「はじめて会った時に、そう思ったよ。この子は鬱も抱えた、ボーダーの患者だって」

 

そう、院長先生は言いました。その院長先生は「境界性パーソナリティ障害」ボーダーラインの、専門家だったのです。

 

その病気の症状の詳しい説明は、ここでは省かせていただきます。これも人それぞれなところもあるし、全てが全ての患者に当てはまるわけではないし、ここにそれを書くことによって、他の境界性パーソナリティ障害の患者さんへの誤解が広まってほしくないからです。わたしがなぜ、このブログやツイッターで、この病名を自ら打ち明けることを、今までずっと避けていたのか。誤解が広まってほしくないからです。今以上に誤解が広まってほしくないからです。わたしのような人間全てが、境界性パーソナリティ障害だと思われたくないし、境界性パーソナリティ障害の患者全てが、わたしのような人間だと思ってほしくなかったからです。境界性パーソナリティ障害は、本当に誤解が多いです。この病名でインターネットで検索をかけると、その評判があまりに悪いことは一目瞭然です。もちろんこの病を抱えた患者を支える立場の方は、その症状に「たまったもんじゃない」と感じると思います。それは否定しません。でも。その病に、障害に、一番振り回されているのは、患者本人なのです。自分のことが、自分の感情が、自分の行動が、なんでこんなにうまく操縦が出来ないのか。なんでこんなにうまくコントロールできないのか。それによって、なんでこんなに周囲をふりまわしてしまうのか。そのことに悩み、疲れ果てているのは、他ならぬ、患者本人なのです。

 

院長先生はこう言いました。

 

「ボーダーはな、確かに周囲の人間を、まるでトルネードのように巻き込み、ふりまわしてしまう。でも、みんな魅力的な人間だ。人間味あふれる、とても、魅力的な人間だ」

 

と。

 

その院長先生がそれまでに数多く出会ったボーダーの患者さんは、誰もが魅力的だったと話していました。人間味あふれる、どこか憎むことのできない、そんな魅力にあふれていたと。そして、潜在能力がとても高いと。たとえば、芸術面。絵がすごく上手い、色彩感覚が優れている、絶対音感がある、だとかいう芸術面での才能を秘めていることが多かったと。また、文章能力が優れている、会話のはずませ方がうまい、という方も多かったと。そしてそんな素晴らしい才能を、誰もが病が邪魔をして人生に活かしきれず、みんな、悩んでいる、と。確かに、それまでわたしの周りにいたボーダーの患者さんは、みんな魅力的な人でした。とても素敵な人だった。そして、自分ではきっと気づいていないけれど、すごい才能を持っていました。なんでそんなこと出来んの?どこで覚えたの?みんなそれぞれあらゆる分野でそんな才能を持っていました。でも、みんな本当に悩んでいるし、どこか極端なところもあるんだけれど、みんな、本当に素敵な、魅力的な人だった。ん?わたし、なにかそんな才能あったかな。絵を描くは好きけど、大したことないし。楽器も演奏したことあるけど、大したことないし。あれ?わたしだけその特徴持っていない。まぁ、いいや。この院長先生の診断には、間違いは感じられないから。

 

この病の完治までには、長い年月が必要とされることが多いです。とても、根気のいる治療になるのです。だからわたしのうつ病も、34歳になった今も、なかなか完治も寛解もしないのかもしれません。

 

そして院長先生は、それまでに長年飲み続けた薬の処方の大幅な改善をしました。「この量の薬は、必要ない」と判断され、手のひらいっぱいだった昼間の1回あたりの薬が、ほんの4粒になりました。朝昼晩就寝前と4回の服薬も、朝晩就寝前の3回のみ。昼も飲む必要はないと。こんな大幅な処方の改善がされると、多くの人は不安になるかもしれませんが、わたしに与えたものは安心感でした。これだけでいいんだ。なぜか、少し自信がつきました。わたしはあんな量の向精神薬を飲まなくても、生きていけるんだ。それまでに飲んでいた薬に離脱症状が出るものが含まれていなかったのかもしれません。わたしは1回あたりほんの4粒の薬だけになっても、精神状態は安定していました。そして、頓服として「リスパダール」が処方されました。手術の晩にはじめて飲んだ安定剤です。今度は液体ではなく、錠剤。とても小さな粒です。あの苦いような酸っぱいような、なんとも言えない味覚を感じることはありません。それがわたしの排卵を止めるだなんて思わなかったけれど。確かによく効く。わたしには、手放せない薬になりました。

 

そんな院長先生との診察で「先生、どうしても、今日の診察行けないよ……って日は、どうしたらいいですか?」そう訊くわたしに「這ってでも、来なさい」そう院長先生は言いました。わたしは、とても安心しました。地面を這いつくばるなんて、みっともないけどさ。でも、それでも必ず来よう。そう思えました。そんな信頼が、診察の度に芽生えました。「今度は、失敗させないから」そう院長先生は言いました。失敗させないけん、だったかもしれない。この人の施してくれる治療についていこう。主に自宅にこもってばかりのわたしにとって、診察に必ず行く、というのは、わたしの目標であり、わたしの日常になりました。

 

みんな!どうしよう!

どうしよう。ここまででいいかな?今回はここまででいいかな?勇気さんが出てこない!勇気さんまだ登場しない!むしろ今回のこのエピソード必要かな?必要だね。勇気さんとの日々を書く上ではなにもかも欠かせない………って、もしかして【【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】と【【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】のわたしの飛び降り自殺未遂は、「人は飛び降りるとどうなるのか」っていう目的だけでまとめた方がよかったかな?いやでもF田先生とのエピソードが勇気の野郎との話をする上で欠かせないはず……!…………いや、はしょってもよかったかも。そこ勇気さんとの日々では一瞬しか出てこないかも。あーーーーーーーーーでももう書いちゃったし!ありがたい感想もいただいたし!本当にありがとうございます。うれしいです。わたしが生きている意味と理由なんて全然わかんないし、もしかしたらないかもだけど「もしかすると、あるかもよ。もしかするともしかするよ」って思えます。そもそもわたし文章まとめんの苦手なんですよ!要点だけまとめんの出来ないの!なのになんでブログ書いてんだろう!話し始めたり書き始めると止まらないの!そろそろ止まりたいから、このまま更新ボタンポチります。ごめんね!いつも長ったらしくて、何言いたいかちっとも伝わってこない記事ばっか書いてごめんね!読んでくださる方の時間泥棒だよね!勇気さん出てこいよ。早く出てこいよ。お前の方からむりやり出てこいよ。あ、冒頭にいるね。「ごめん、寝てた」って冒頭で寝てたね。友情出演みたいな感じでいたね。それで許してくださいね。本当に、ごめんね…………!画像もつけなくていいよね。必ず記事にそれっぽい画像むりやりつけるの疲れてきた。あとで編集し直したらつけるかもしれないけど、とりあえずいいよね。あんまそこ重要じゃないしね。

 

では、これからも引き続きサイボーグとして壊れる形で天に召されなかったら、また来ます。またこの場所で会いましょう。「勇気さんなかなか出てこないから、もういいや」ってみんななってると思うけど。

 

また、来てね!

それまでわたしもあなたも、どうか元気でね!

わたしは、ここにいるよ!

 

葉月ひろな

Twitter @hazukihirona

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【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」

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【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

 

手術後の翌朝。

朝になって目が覚めたら、周りにたくさんいたはずの看護師さんが普段の朝の人数になっていて、朝食が運ばれてきました。たぶん、なんとなく、わたし、無事だったんだ。「今夜が峠です」だなんて、一言も言われなかったけど。たぶん、そんな感じだったんだ。目の前の、いつもとあまり変わらない、それでも栄養バランスの整った、病院の朝食。お腹、めっちゃ空いてる。昨日の朝から何も食べていない。本当は、スタバのキャラメルフラペチーノが飲みたかったんだけど。とにかくお腹が空いている。看護師さんに、わかめの酢の物と、ピーマンの炒めものを食べさせてもらいました。途端に吐いてしまいました。嘔吐が止まりません。胃袋が裏表ひっくり返りそうです。なんで?あんなに食べたかったのに。あんなにお腹空いていたのに。こんな激しい吐き気、生まれてはじめてだ。キャラメルフラペチーノとか言ってる場合じゃない。そんなの食べれない。そんなの欲しくない。胃の中のもの全てを吐き尽くして、術後で体力が奪われていることからも、ぐったりとしていました。あまりに長時間の全身麻酔の翌日には、こんなことがよくあるそうです。看護師さんは、わたしが吐く時に備えた、銀色のお皿を用意していました。

 

あり得ないぐらいの、痛み。

それからも痛みがますますと増していきました。腰の金属ボルト6本を埋めた部分が痛いのだろうけど、もうどこが痛いのかもわからない。背骨に刃物のような異物が突き刺さっている感じなんだ。骨に刃物が突き刺さってる。あり得ない。耐えられない。思わず叫んでしまうこともありました。そんなわたしを、母は冷たい眼差しで見つめていました。お母さん。そんな目で見ないでよ。わたしが悪いのはわかっているよ。お父さんも、呆れているのはわかっているよ。ただ、お母さん。あなただけは、わたしの味方でいてほしいよ。お父さんの否定の数々は、あまりに理論的すぎて、あまりに合理的すぎて、そこに「愛」がないんだよ。でも、お母さん。あなたは、その理論主義も合理主義も、本当は苦手でしょ?同じ女だから、わかるよ。だから。お母さんだけは、わたしの味方でいてよ。

 

あの人に連絡をしないと。

そんな母の冷たい眼差しを感じながらも、わたしは母がお見舞いに来てくれるのを、楽しみにしていました。でも、いつ来てくれるのかは、いつもわからない。当時スマホはまだなく、ガラケーだった携帯電話は取り上げられていました。その病棟が携帯の使用を禁止していたからではなく「あなたは精神疾患を患っているから」という理由で、母に取り上げられていました。なんで?別にわたし、携帯電話でネットはしないよ。メール機能と電話機能しか使っていないよ。自分の稼いだお金で払っているし、携帯代節約したいから、インターネットは一切していないよ。携帯電話を持ち始めた15歳の頃から、携帯代を両親に払ってもらったことは一度もないし、わたし今寝たきりだから、公衆電話まで行けないんだよ。今つきあっている男性とも、連絡がずっと取れていない。彼は関東に住んでいる。その男性とどんな結末になるかは、わかっているよ。ただ、一言連絡を入れたいよ。「わたしは、ここにいます」って。

 

その後、術後しばらくしてから、なんとか上半身だけは起き上がることが出来るようになり、それでも必ず背もたれは必要で、毎回大勢で、大がかりに、起き上がっていました。久しぶりに目線が高くなりました。ようやく、今つきあっている男性に手紙が書ける。事情を説明し、ここにいます、と手紙を書きました。看護師さんに頼んで、その手紙を出してもらいました。その男性とは関東で大学中退後に働いてる職場で出会いました。わたしより8歳年上の28歳で、その職場のリーダーのような人でした。彼からの熱烈なアプローチでつきあい始めました。病気のことも打ち明けていました。その上で、プロポーズされていました。「来年になったら、結婚しよう」と。結婚式の内容も話し合っていました。わたしもそうですが、彼は青春時代に安室ちゃんが全盛期の世代なので、安室奈美恵さんのCAN YOU CELEBRATE?を流したいと。そのBGMにのせて、わたしをお姫様だっこしたいから、ドレスはマーメイドドレスを着てほしいと。

 

そんなのもう無理ってわかっているけど。腰が砕けたからとかの理由ではなく。そもそもわたし、「予備校の彼」以上に、あなたのこと愛せていないけど。「予備校の彼」のこと、こんなに忘れられていないけど。でも、あなたとの毎日も楽しかった。そこに偽りはない。別れがくるのはわかっている。でも、最後に、関東のわたしの一人暮らししている、あのアパートの庭に一緒に埋めた、チューリップの球根。そろそろ、咲くと思う。そのチューリップの花が咲くのを、一緒に見たいよ。

 

その男性は、仕事の休みをとって、九州の総合病院までお見舞いに来てくれました。あまりに変わり果てた姿のわたし。なんとか起き上がることは出来るようになったけど、未だに尿管のパイプは繋がっている。ベッドの脇にはわたしの尿が溜まる袋がついている。それを見て彼は「……………汚ぇ」と言いました。何を話したかは、あまり覚えていません。ひたすら、汚ぇ、臭ぇ、と言っていました。その晩に、わたしの両親と食事をしたらしく、結婚を考えていることも話したそうですが、その席で、わたしの両親とその男性は「自分で飛び降りるなんて、何考えてんだか」と、笑っていたそうです。母からそう言われました。昨日、私達、あなたのこと、笑っていたの。って。

 

その男性との別れを決意し、その数日後に、関東に帰ったその男性から手紙が届き「今回のことは、あり得ないから、別れよう」と書かれていました。わたしがあり得ないことをしたのはわかっているよ。わたしの身体が悲鳴上げているもん。でも、それなら、なんで九州までわざわざお見舞いに来たの?わたしに、汚ぇ、臭ぇ、って言いに来たの?往復の飛行機代バカにならないはずでしょ?そんなお金をかけてまで、そんな言葉を言いに、わざわざ来たの?そして、わたしの両親と、わたしとの結婚を考えていることを話した上で、わたしの居ないところで、わたしのことを、笑っていたの?

 

その男性は、お料理が本当に上手で。わたしはまだ、料理があまり得意ではなくて。カレーしか作れない。小学生の頃から、子育ての落ち着いてきた母が、昼間パートに出るようになってから、よくわたしが、日曜日の父と兄のお昼ご飯を作っていました。だいたいカレーなんだけどさ。小学4年生の頃から、何回も作ってきたから、一応自信ある。「予備校の彼」にも、受験が終わったあとに、彼のアパートで作ってあげたら「お前、天才!」って言っていた。そういえば、あの時、はじめて「お前」って言ってくれたな。「お前」なんて、一昔前の夫婦の古臭い言葉かもしれない。亭主関白かよ、って。でも。そんな関白宣言、わたしは嫌いじゃないよ。って当時そんなことを思って「予備校の彼」を思い出したのは、ここではどうでもよくて。カレーしかまともに作れないのに、わたしのアパートに当時つきあっていたこの28歳の男性が訪れた時には、見栄をはって、はじめてのレシピに挑戦していました。まともにちゃんと作ったことのない、ハンバーグとか、麻婆豆腐とか。当時のわたしにはまだ難しすぎて、「ハンバーグ焼くなら、ソースに肉汁を使うといいよー」とか言い出す彼の言っている意味が、ちっともわからなくて。毎回料理は悲惨な結果。そんなわたしを見兼ねて、彼が作り直してくれる。え!?わたしの買ってきたあの材料で、これ作ったの!?すっごい、ご馳走!しかも、品数もすごい!どうやったの?どうやったの??そんな風に喜ぶわたしを、ニヤニヤと、いじわるそうな顔で見ていました。彼は情報処理の専門学校に行くか、料理の専門学校に行くかで進路を悩んだぐらい、料理が好きで上手な人でした。ただ、カレーに毎回ソースをかけて食べるのにだけは、なんだか納得がいかない。ちょっと拗ねているわたしを、やさしく抱きしめてくれる。そんな人だった、はずでした。

 

リハビリの開始、F田先生との出会い。

その後、入院をしたままその男性とお別れをし、傷口の塞がったわたしは、骨移植をする際に臀部から骨を一部とった箇所の肌の「触覚」が失われていることに気がつきました。お尻のその傷の上を触っても、触ってる感覚が、臀部からしない。整形外科の研修医は「いずれ、戻るから」と話していましたが、約10年間は戻りませんでした。今でも、その箇所の触覚だけは、ぼやけています。そして、自分の五感のひとつが失われつつも傷口が塞がったわたしは、リハビリの許可が出ました。わたしの腰には、手術の直後から、医療用のコルセットがついています。脇の下から、臀部までありました。わたしだけのために、わたしだけのサイズで作られた、サイボーグみたいな白いコルセットです。上半身のほとんどをコルセットが締めています。少なくとも1年間は外せないと言われました。その状態で、まずはベッドの上で腹筋をつけるところから始まりました。リハビリテーション科は、わたしのいる精神科病棟とは違う階にあります。しかもわたしは閉鎖病棟の患者なので、「必要」と判断されて、特別な許可が出るまで、そのリハビリテーション室に行くことは許されません。

 

F田先生という、若い男性のリハビリテーション科の先生が、わたしを担当することになりました。別れた男性と同じ、28歳でした。同じ、関東の出身でした。当時のわたしにとっては、唯一自分と同じ標準語を話してくれる人でした。結婚されていて、お子さんが生まれたばかりとのこと。F田先生に教えてもらったその子の名前は、とてもかわいい名前の、女の子でした。新幹線を使って通勤しているとのこと。その遠い隣の街は、新幹線を使えば10分の距離なのだとか。毎朝新幹線に乗っているから、新幹線のアナウンス全部覚えちゃったよ!と、F田先生はキラキラとする瞳で話してくれました。それに笑顔で受け応えをするわたしを、「この子、本当に、閉鎖病棟への入院が必要な患者なのだろうか」と最初から思った、と、F田先生は話しました。「いや、わたし、そこまで重症なうつ病患者ではないと思うんですが。今までも入院はしたことあっても、開放病棟だったので。ただ、今回は、自分で飛び降りちゃったから……」と、話すわたしを、「そっか………」と、何も責めることなく、肯定することもなく、それ以上は深くは訊いてきませんでした。ありがたいですね。本当に、あの総合病院では、ありがたい、としか言いようがない、整形外科のロマンスグレーの担当医と、リハビリテーション科の若い先生にお世話になりました。精神科病棟の担当医のことは、あまり記憶にありません。患者から「大名行列」と呼ばれていた、精神科の医師と複数の研修医全員での、全病室を周りながら、患者1人に対しておよそ5分間の会話をする診察しか、記憶にありません。その大名行列、何の意味もないでしょ。すっごい威圧的。しかも、同じ患者だからって、他の患者さんがいる中で、自分のことさらけ出せる人、いるわけないじゃん。毎回そう思っていました。おかげで、精神科の担当医の顔は、ほとんど記憶にないです。なんか、後ろ姿が、まるで疫病神みたいなシルエットの人だった。

 

20歳の身体は「ご老体」

そんな、精神科病棟では、なんとなく居心地の悪さを感じていたわたしにとって、リハビリテーション科のF田先生は、たった1人の理解者のような人でした。整形外科のロマンスグレーの担当医は、術後はあまり接点がなかったので。もちろん恋愛感情は抱きません。ただ、この人みたいな旦那さんを持つ奥さんは、きっと素敵な人なんだろうなと思いました。F田先生は、わたしのことを「20歳のご老体!」って呼ぶことがありました。術前術後と3ヶ月も寝たきりになると、本当に身体はなまる。筋肉もかなり落ちていました。わたしはもともと、筋トレは結構してきていて、特に腹筋には自信がありました。中学生の頃から、毎朝学校に行く前に腹筋をしていたのです。それは、当時途中入部をした女子バスケットボール部で、みんなについていきたいから始めた習慣でした。よく家の周りも走っていました。よくウォーキングもしていました。途中から、その目的は、思春期の女の子誰もが通る、痩せたいから、になってしまっていたし、わたしは運動神経自体はあまりよくなかったので、ひたすらバスケットボール部にはついていけなかったけど。片手でボールをゴールに入れるレイアップは出来るようになったけと、ドリブルの苦手だったわたしは、ゴールから遠く離れた場所からスリーポイントシュートをよく狙うようになって、その練習のし過ぎで途中で肩を壊して、マネージャーみたいになっちゃったけど。ただ、腹筋には自信がありました。一時期流行ったヘソ出しルックだってよく着ていた。ウエストはいつも引き締まっているのが、わたしの中では当たり前でした。

 

その腹筋も、全然ない。手術の際に腰の筋肉をメスで切ったから、も、あるかもしれない。足の筋肉もかなり落ちているんだろう。未だに術後の医療用着圧タイツ脱げないから、よくわかんないけど。そんな、3ヶ月寝たきりによって筋肉が落ちまくった体力のないわたしを、F田先生は「ご老体!俺より若いのに、ご老体!」って茶化してくれました。「葉月さーん!ご老体ー!リハビリの時間だぞー!」って、閉鎖病棟のわたしの病室を訪れてくれました。この頃から、再びうつ病の症状が出始めたわたしには、きついなぁ…………と思う日もありましたが、閉鎖病棟独特の雰囲気の中で、F田先生は笑顔を絶やすことはありませんでした。「葉月さん、なんか最近ちょっと元気ないね?」と話すF田先生に「うん………ちょっと、うつ、きつい」と話していました。そんなわたしに、ベッドの上で出来る、かつ腰を痛めないようにする腹筋のリハビリを施してくれました。こんなんで本当に腹筋つくの?と思うぐらいの、簡単な動き。でも、肩を壊した中学時代にしたリハビリも、かなり簡単な動きだった。きっと、これで筋肉はつく。そう信じることが出来ました。完璧にはもとに戻らないけど、だんだん、足の筋肉をつけるリハビリにも移り、ベッドの上で、F田先生の腕の力に対抗する形で、足を動かしていました。そして数週間経ち、閉鎖病棟の廊下を、歩行器につかまりながら歩く許可が出ました。ヨロヨロとしながら。久しぶりに、歩いた。よかった。歩ける。腰がめっちゃグラグラするし、金属ボルト6本で支えているとはいえ、身体の要である腰が安定していないせいで、上半身と下半身が別人みたいだけど、歩行器につかまればなんとか歩ける。それでも、長い時間は歩けませんでした。最初は5分とかが精一杯です。腰が痛すぎるから。だから、移動の際は、ほとんどが車椅子です。だけど、1ヶ月ほど廊下でリハビリをして、短い時間でもなんとか歩けるようになったわたしは「退院する前に、階段の登り降りを練習したい」と申し出ました。日常生活に戻ったら、そんな動きは避けられない。その練習をしないうちに、退院をするのは不安。そう申し出たわたしに、F田先生は、閉鎖病棟からリハビリテーション室までの移動の許可を取り合ってくれました。前例がないそうです。F田先生は(どうする………?)みたいな看護師さんや研修医を説得して、僕が必ず葉月さんに付き添いますからと、リハビリテーション室への移動の許可をお願いしてくれました。

 

4ヶ月ぶりの、閉鎖病棟の外。

なんとか許可が出て、同意書のような、誓約書のようなものに署名捺印をしました。そうして訪れたリハビリテーション室は、閉鎖病棟と違い、明るい感じがしました。照明そのものが違うような。そこで、F田先生は自転車をこがせてくれました。よくジムとかにあるような、床に固定されたタイプの自転車です。全然こげない。いや、めっちゃこいでるんだって。これがわたしの最速なんだって。こげてるよね?わたし、めっちゃこいでるもん。そんな必死に自転車をこぐわたしを、F田先生は「ご老体ー♪」って、また茶化してきます。身体に鞭打ってがんばっているご老体に失礼でしょ。と思いながら、必死に自転車をこぎます。「がんばれー♪ご老体ー♪」しつこい!わかってる!むしろ敬え!お前より年下だけど、お前より身体の衰えは上だ!そう思いながら必死にこぐ自転車。思えば、4ヶ月ぶりぐらいに、全力で身体を動かしました。久しぶりにかく汗。運動するって、こんな感じだった。筋トレは好きなのに、昔から息の上がる運動は苦手で。でも、運動するって、こんな感じだったな。

 

あと、一歩間違ったら。

そんなリハビリテーション室で、目的だった階段の登り降りの練習をしました。リハビリテーション室にある階段は、あまり段数の多い階段ではないので、不安は残りますが、なんとか数段の階段も登り降りは出来ました。そんな練習をしているわたしの横で、F田先生が車椅子に乗って、階段の横にあった小さな段差を車椅子に乗ったまま乗り越える動きをしていました。ヒョイ、ヒョイ、と、車椅子の片方の車輪の部分だけで、次々段差を乗り越えて、前に進んでいきます。「すごい!そんなことって出来るんですね!」と驚くわたしに、「車椅子の生活になった患者さんには、こういう動きも教えなきゃならないんだ。どこもかしこもバリアフリーなわけじゃないし、日常生活のほとんどが障害だらけになる。その上で、生きていくための術を教えるのも、僕たちリハビリテーション科の仕事なんだよ」と話していました。そっか。わたし、あとちょっとで、そんな車椅子生活になっていたんだ。F田先生は、ヒョイっ、ヒョイっ、っと色んな段差を乗り越える動きを見せてくれました。わたしに、それが習得出来ただろうか。簡単そうに乗り越えているけど、めちゃくちゃ身体中の筋肉使うはず。わたしに、そんな生活を乗り越える、力と根性は、あっただろうか。本当に、馬鹿なことをしたんだ。でも。建物から飛び降りるほどの衝動に駆られた時。人は、その未来を、想像出来るのだろうか。経験した立場からいうと、それは、否だ。どう考えても、どう思い出しても。それは、否だ。

 

飛び降りた、理由なんて。

そんなわたしに、精神科のインターンに来ていた、若い研修医がついていました。おそらく、精神医学については、まだ知識の浅いだろう研修医です。それなのに、頭でっかちな考えしか出来ない研修医でした。飛び降りをしたわたしに「人は飛び降りようと思うほどの覚悟があるのなら、なんだって出来るはずだ」と言いました。きっと、飛び降りを実際に行動に移す前に、という意味なのでしょう。お前本当に精神科の研修医?と思いました。わたしの小・中学生の同級生に、数年後同じように研修医になった友人がいましたので、その友人が研修医になった時に「自分がつきたいと思う専門科の他も、研修医として経験しなければ、つきたい科の専門医にはなれないんだ」と話していましたので、その未来で研修医の現実を知ったのですが、当時のわたしには「お前いっぺん勉強し直してこい」としか、わたしについていた研修医に対しては思えませんでした。「飛び降りようと思ったら、なんだって出来る。そんな人間ばかりじゃないんです。そんな一見当たり前のような、精神状態の人間ばかりじゃないんです。少なくとも、うつ病は、そんな簡単な病じゃない。そんな世間一般の常識だけではかれるような、病じゃない。」そう言うわたしに、研修医は、何て言葉を返したらいいか。俺にはわかんねぇ。そんな顔をしていました。

 

普通なら、この研修医のように、わたしに言いたくなるでしょう。両親だってそうです。世界中のほとんどの人が、わたしにこう言いたくなるでしょう。わたしだって馬鹿なことしたのはわかっている。でも。あの夜の精神状態を、あの時のわたしの、家族の顔も友人の顔も恋人の顔も、一切浮かばず、暗闇を空飛ぶ勢いで飛び降りた際の、わたしの精神状態。誰かに説明する気にもなれない。誰かに説明しようとも思わない。わたしにだってわからないんだ。突発的に行動に移したわたしの脳みその中身なんて、わたしにも、わからないんだ。どこに帰っても、帰った気持ちになれない。実家に帰っても、帰ってきた気持ちになれない。7歳年上の兄の家庭内暴力がひどかった幼い頃から、どこに帰っていいかわからない。わたしがうつ病を診断された15歳の時から、ひたすら否定ばかりされる、そんな家しかない。わたしが悪いんだ、って納得するしかない。野宿?野宿はあまりしたくない。両親の言っていることにも間違いは感じられない。なんとなく、おかしいな、っていう違和感はあるけど、ほとんどの家庭って、そうでしょ?うちだけが特別じゃないでしょ。みんな何かしら否定はされるでしょ。将来を期待してた子供がうつ病になんかなったら、腫れ物みたいに扱うのが当たり前じゃん。それを責める気もないよ。なんとなく胸はモヤモヤするけど。なんで暴力をふりまくってた兄は、ちゃんと大学院まで卒業して、しかも主席で卒業して、中小企業であってもちゃんと就職して、昔は「お兄ちゃんみたいになっちゃだめよ」って、お母さんはそう言っていたのに、兄の暴力がある度に「あんたが泣くんじゃないわよ!」って何故かわたしが怒られたのに、その兄の暴力が原因で、お母さんはわたしの目の前で自殺をしようとしたのに、それを「まだひろなが居るだろう!」ってお父さんは止めたのに、兄はまっとうな人生の道に戻れて、わたしがひたすらまっとうな道から外れていってて、どこに帰ったらいいのか、「自分の家なんだから、胸はって帰りなさい」って言う遠く離れたおばあちゃんの言葉に涙するしかなくて、どこに胸はって帰ればいいのか、ずっとわからないわたし。そういえば、5歳くらいの時に、宇宙空間をまだ知らないのに、その空間を思い出しては「帰りたいな」って感情に見舞われては、涙を流したり、過呼吸になったりしていたな。だから飛び降りたわけじゃないけど。自宅が療養の場にならず、実家も落ち着かず、そうして入院をしたあの病院でさえ「よそ者」って見られて。療養になんてならなくて。病院の中もひたすら薄暗かった。あたたかな食事、あたたかな笑顔、ただいまって言えば、おかえりって返ってくる、そんな家を誰もが持っているわけじゃないから、時には頼らざるを得ない入院病棟。あれ?わたしなんであの病院に入院してたんだろう?お母さんがまた「この子の面倒、私はみれません」って言ったのかな。まぁいいや。気持ちはわかるし。わたしが入院すれば、丸くおさまるし。わたしの居場所は病院だし。病院はわたしの居場所だし。それなのに。なんか、意味わかんなくなっちゃったんた。あの時は、本当に、間違っていたのはわかっているけど、そうするしか、なかったんだ。

 

F田先生の出した「勇気」

そんなわたしの、閉鎖病棟での研修医とのやり取りは、F田先生は知らないはずです。最近ちょっと、うつがきつい時がある、という話はしていたと思います。ある日、またリハビリの日が来ました。F田先生が「行くぞ!」と、リハビリテーション室に付き添ってくれました。でも、なぜか、リハビリテーション室には行かない。え?さっき通り過ぎなかった?他にもリハビリテーション室あるのかな。そう思いながら、F田先生のあとを追いました。この頃のわたしには、ようやく歩行器も必要なくなり、それでも、大きなコルセットを巻き付けている上半身と下半身はまだ一体化していなくて、グラグラするんだけど、必死にF田先生のあとを追いました。なぜか、F田先生は一言も話さないのです。なんで?なんかあった?てか、どこに行くの?ん?室内プール。いやでも、水ははっていないし、長年使われていない感じ。そもそもここ、病院のどのあたりなの?結構長いこと歩いてきたよ。何回も階段も通ってきた。わたし、あんなに階段降りれた。かなり薄暗いし。電気さえ点いていない。え?そっち?なんか体育倉庫みたいだけど。あ、扉を開けた。

 

陽の光が、一気に目の前に飛び込んできました。

それまで、いつもガラス越しにしか感じられなかった、太陽の光。

いつも、いつまでも感じられなかった、病室の窓から見える、海から吹く潮風。

 

「外だ………」病室の窓から見えていた海と同じような、海から流れている川の橋の上に出ました。振り向いたら、わたしの病室からは、ここは見えないようでした。病室から見えていた景色とも違うし。精神科病棟とは反対側に来たのでしょう。

 

「退院前に、外で歩く練習しなくちゃな!」

 

ようやくわたしの方を振り向いて、そう言ったF田先生は、いつもみたいに笑っていました。きっと、見つかったら、ひどいお叱りを、彼は受けるはずなのに。何か罰を受けるかもしれないのに。彼は、あまりに久しぶりの太陽の陽の中で、笑っていました。先生。こんな患者のために、そんな危険な橋渡らないでよ。ありがとう。本当に、ありがとう。

 

5ヶ月以上ぶりの外を、潮風を感じて2人で歩きながら、F田先生は「やっぱり葉月さんは、閉鎖病棟に入院する必要は感じられない」と話していました。今回の事情がどうあれ、そんなに重症な患者には、僕には見えない、と。「わたしもそう思うけど、わかんないです。実際に自分が、どんな患者なのか。18の時かな。関東の開放病棟に、廃人みたいに入院してて。でも家族は、休めて羨ましいって言ってて。そんな廃人の頭で、20歳までに治すんだ、って思ってた」そんなことを言いながら、わたしは笑っていました。F田先生は、少し、さみしそうな顔をしていた気がします。その表情の理由なんて、わからないよ。わたしはかわいそうな人ではない。かわいそう、って自分で思ったら、きっとそれが本当になっちゃうから。わたしは、いつもわたしのことはうまく操縦が出来ない。でも、自らかわいそうな人には、なりたくないんだ。こんなことしておいて、説得力ないけどさ。でも。なんか今回、助かっちゃったから。その腰を治すことにだけ集中してたら、なんか楽になって。今、ここにいるから。そんな自分の気持ちは一切打ち明けず、長い橋の上に差し掛かって、その真ん中に来た時に「じゃーん!」とF田先生が、デジタルカメラを白衣のポケットから取り出しました。「写真撮るんですか!?わたしの!?」「最近、娘の写真撮ることで写真の良さに気づいてさ。1枚、撮らせてよ」「えー………わたし今すっぴんなのに……」「いいからいいから」

 

はい、チーズ!

 

たくさんの太陽の光の中で、潮風に吹かれながら、そうシャッターが切られた、デジタルカメラの背面液晶に、わたしの、どこにも売っていない、わたしだけの特注の、頑丈な医療用コルセットに支えられた、不器用な笑顔が写っていました。笑い方なんて、わからないよ。わたしはうまく、笑えてますか?「やばい、変な顔!まゆ毛もボサボサ!だって毛抜きもカミソリも持ち込み禁止なんだもん!髪もボサボサ!わたし前髪ないと生きていけないのに!ここ、風強いよ!わたし、この写真、いらないです!」

 

そんな潮風の中の、どこかさみそうな笑顔のF田先生との、わたしは、本当はこの外にはまだ居てはいけないはずの、それまでのリハビリで一番楽しい、それまでのリハビリで一番まぶしい、誰にも言ってはいけない、2人だけの秘密の、たった1回の、F田先生の出した「勇気」から導かれた、その時のわたしにとっては「奇跡」でしかない、低い天井ではなく高い青空のもとでの、最後のリハビリテーションでした。

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そうして、全てのリハビリを終えて、わたしの手術を担当した整形外科のロマンスグレーの担当医が病室を訪れ、「はい、卒業証書。」と、整形外科医による退院許可証がわたしに渡されました。「本当に、お世話になりました」今度はちゃんと頭を下げながらそう言うわたしに「半年後な」と、ロマンスグレーの医師は返しました。半年後に、もう一度MRIを撮ります。レントゲンより更に細部まで見るためです。そして異常が見られなければ、その後の検診は、1年後。その先は、わかりません。必要に迫られたら来るのだろうけど。そしてわたしは、「先生、あの…………わたし、ハイヒール、履けますか?」と、訊きました。そんなん履かなくてもいいでしょ?いやいや、当時の20歳のわたしにとっては、その先の人生におけるおしゃれを楽しむ上で、重要なことでした。「勝負の日だけに、しなさい。」ロマンスグレーの医師は、ウインクをしながら、そう答えました。「…………はい。」とても、心から納得の出来る、合理主義・現実主義の父からは、一度も得られなかった、「愛」の込められた、わたしだけへ向けた、わたしだけの「答え」でした。飛び降りた際のハンパない痛みと、術後の痛みを乗り越え、たくさんの人の力を借りながら、わたしは、約100万円をかけ、腰に爆弾を埋めました。3割負担だから、本当は3000万円ぐらいするのかな。わたし計算苦手だから、わからない。そんな多額の当時の先進医療で、腰に爆弾を埋めました。いつ爆発するかわからない。いつ、この腰が言うことをきかなくなるか、わからない。それでも。わたしは、コルセットに上半身を支えられたまま、まだ、胸はちゃんとはることが、物理的に出来ないけど。歩きながら、初めて来た病院の1階の売店に売られていた九州の名物のひとつ「いきなり団子」を(めっちゃ美味しい……)と感じながら、そんな生きているからこその感情と喜びを抱きしめながら、その総合病院を、卒業しました。

 

義務教育の中学卒業以来、はじめて、自分の力で、たくさん周りの力を借りながら出来た「卒業」でした。卒業アルバムは、たった一人で、あのとても空が高かった、この九州では何故か一度も感じられなかった、目がくらむほどの晴れた日に、不器用な笑顔で写る、F田先生のデジタルカメラの写真です。あまりに不細工だったから、もらってこなかった!

 

その卒業の門をくぐる前に、閉鎖病棟をあとにする前に、当時のわたしにとっては厳しい言葉をかけた勉強の足らない精神科の研修医の白衣の胸ポケットに、そいつの真正面から、「ラブレターだよ!先生!」って、手紙突っ込んどいた。えっ?みたいな顔してた。そのラブレターに「うつ病についてもっと勉強してこい。わたしはその間に、この病を治す!」って書いていた。なんて生意気な20歳の女。そいつ勉強し終わったかな?わたし、その14年後に令和の時代が始まっても、まだ完全に治ってない!

 

この、およそ半年の間に、わたしの周りに次々と、たくさん訪れてくれた、医師たちと、看護師さんたちと、リハビリの先生と、わたしには厳しかった研修医。そんな当時の先進医療に携わってくれた、たくさんの恩人。誰もが今世会うことを約束してきた「ソウルメイト」だったのだと気がつくのは、その14年後のことです。それによる「学び」の意味は、まだわからないけれど。何故、わたしがあの時助かったのか。なんであんなに何回も「奇跡」が起きたのが。なぜあんなにも、会ったばかりの、あまりに馬鹿なわたしにたくさんの「愛」をくれたのか。その意味と理由なんて、34歳になっても、まだわからないけれど。

 

とりあえず今回はここまで。

いかん!また勇気さんとのエピソードが始まりませんでした!でもこの飛び降りからの腰に爆弾を埋めたエピソードも、勇気さんとの日々には欠かせない事柄で。この約12年後に腰が悲鳴を上げるんだけど、その痛みをとるエピソードが勇気さんと…………え?わたし何年後の話をしようとしているの?いやだって勇気さんとは10年間も一緒にいたし、このF田先生とのカメラエピソードも、そのF田先生の住んでいた隣の街も、結婚の約束を交わしながら別れた男性のお料理が上手だった話も、何もかもが勇気さんとの日々を話す上では欠かせなくて…………わたし一体この話を何章仕立てにしようとしているんですかね!100章ぐらい?それわたし書けんの?それ誰か読んでくれんの?ツインレイだと思っているロイくんとのエピソードはまぁまぁの文字数とはいえ【前前前世からずっと。来来来世までもいつまでも。 - わたしはここにいるよ】で1回にまとめられたのに!今までソウルメイトとの恋愛は【【前編】予備校の彼。あなたのこと、忘れません。 - わたしはここにいるよ】【【後編】予備校の彼。あなたのこと、忘れません。 - わたしはここにいるよ】って最大2章仕立てで語れたのに!今読み返すともっと書きたい予備校の彼とのエピソードはあったけど!

 

それだけ勇気さんとの日々が、わたしの誇りなんだってことで。まぁ、ロイくんとは数ヶ月しか一緒にいなかったしね。予備校の彼とも2年にも満たない日々だったしね。勇気さんとの日々は10年間だから、そりゃ文字数にも変化はあるよね。未だに出会ってもないけど!今回第2章なのに、未だに勇気さん本人が登場しないけど!

 

がんばって、これからはちょっとエピソードをはしょりつつ、更新を続けたいと思います。ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。お前ら、絶っっっっっ対に飛び降りんなよ!飛び降りたい気持ちを抑えるのなかなか出来ないけど、とりあえず、空飛ぶ勢いで飛び降りたわたしは腰が爆発してかつ100万(3000万?)かけて爆弾埋めながら、今も生きてるから。これ「奇跡」だから。飛び降りなんか死なない。が、わたしの持論だけど、とりあえず今のわたしは「奇跡」の塊だから。今も歩けること、今となっては走り回れること、背骨をたくさん動かすヨガさえも出来ることが、当時のわたしの周りに現れてくれた、たくさんの人の努力と、たくさんの人の工夫と、わたしの生まれ持った身体の造りが起こしてくれた「奇跡」だから。わたしの生まれ持った身体の造りの詳細は第一章に書いてある。こんなん自らの意志では意図して生まれてこれない。これも、ただひたすら感謝するしかない。今も自力でおしっこする度に感動するよ。トイレ行く度に感動だよ。そんな無駄に多忙な毎日を生きたくなかったら、飛び降りんなよ。どうしても死にたくなったら【わかりみの深い「完全自殺マニュアル」 - わたしはここにいるよ】の中の「完全自殺マニュアル」の部分だけでいいから読めよ!一瞬で天国に行ける方法書いてあるから。え?お前何書いてんの?って思うかもだけど、全部読んだら「わかりみー!」ってなるはずだから。今回わたしが爆弾抱えつつも一見まるで健常者のようになれたのは、「奇跡」以外の何者でもないから。当時までまるで気の遠くなるほどの年月を人類が懸命に歩んで医療を発達させてなかったら、十中八九下半身不随で寝たきりになっていたはずだから。その先も生きなきゃなのに、わたし自身はうつ病もその後判明する他の精神疾患も昨年判明した発達障害も抱えながらそのハンデも乗り越えられた自信はありません。この先もこの腰どうなるかわかんない。いつ砕けんの?それ考えると安心してセックスも出来ないよ。激しいセックスする度に不安になるよ。そんな女である自分嫌すぎる!あなたとのセックスで腰が砕けました。なんて、わたしの場合リアルだから。リアルすぎて実際に腰が砕けて背骨の折れた魚みたいになったら相手ひくから。「腰が砕けるような〜♪」って米米CLUBの歌みたいにならないから。絶対に飛び降りんなよ!絶対に飛び降りんなよ!ダチョウ倶楽部じゃないから、絶対に飛び降りんなよ!

 

それでは、またこの場所で。次こそ勇気さん出てくるはず!

じゃーにー。ついんそうるじゃーにー。またこの場所でにー。腰が爆発しなかったら、また来ますね。

 

こんな、今となっては道行くすれ違う人は誰も気づかないだろうけど、昭和生まれで当時の平成の先進医療によってサイボーグみたいになったわたしは、ここにいるよ!気がついたら平成時代のほとんどを精神疾患患者として生きたけど、いい時代だったね。

 

葉月ひろな

Twitter @hazukihirona

hazukihirona@gmail.com

【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」

なんだかまだそんな実感があまりないのですが、令和の時代が始まりましたね。これからは「H○年」ではなく「R○年」になるんですね。この記事が令和最初の記事ではないのですが………令和、始まったね!さえ言っていませんでした。なぜ、わたしがこんなにも令和の実感がないのか。それはたぶん、自宅にテレビもラジオも置いていないからなのでしょう。こんにちは。葉月ひろなです。

 

この間、日本語学校の留学生とお話をしていたら「もうすぐ令和になりますね」って話になって。その留学生は平成生まれでしたので「令和になったら、私は昔の人になります」ってかわいいこと言ってて。「いやいや、わたしは平成の前の昭和の生まれだよ」って話から日本の江戸時代まで遡って話が広がっていったのですが、昨日離婚をした元夫にこの話を電話で話していたら「昭和生まれとか、お前大昔の人間やな」とか言い出す。おちゃめな人です。そんなあなたは、もうアラフォーじゃないですか。わたしが人生の道に迷ったら、こんなスタンプを連続で送りつけてくる、おじさんじゃないですか。


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お前、本当にアラフォーか?わたし、未だにスタンプこんなに使いこなせないよ。

こんなおちゃめな、何歳になっても心は少年な元夫。【コンビニ24時間営業、ダメ。絶対。 - わたしはここにいるよ】にも書きましたが、本当に本当に愛していました。わたしの全身全霊をかけてしあわせにしたい男性でした。彼と添い遂げるしあわせな老後が、彼との生活そのものが、彼との毎日が、わたしの生きる希望でした。22歳の頃から10年間(わたしずっと11年間って思っていたけど、10年間でしたテヘペロ)彼がいてくれたから、わたしは生きてこれました。生きよう、って思えました。この人とずっと人生歩んでいくんだ。この人に出会うために、わたしは生まれてきたんだ。たくさんの出会いと別れをくぐり抜けて、この人に会いにきたんだ。そのために、わたしは生きてきたんだ。10年間本当にそう思っていました。

 

正直、わたしから手を離そうと思ってしまったことは何度もありました。男と女だし、考え方だって価値観だって、まったく別々だし、そんな2人が一緒に同じ屋根の下で生活を共にするというのは、いくら愛し合っていようと、楽しいことばかりではありません。もちろん苦しいことばかりでもなく、たくさんのしあわせを彼から贈ってもらいました。しかし、最後は、わたしから手を離してしまう形になりました。彼のサインがしてある離婚届を握りしめて家を飛び出し、自分の欄を埋めて離婚届を提出し、連絡手段も全てブロックしました。あの時は、本当にそれが精一杯だった。

 

お互いにひどく憎しみ合ったまま、2017年9月に離婚届が受理され、別々の道を歩んでいたわたしたち。今年2019年の2月に、1年半越しに和解をし、今では再び冗談を言い合える、困った時には相談にものってもらえる関係になりました。彼とよりを戻すつもりは一切ありません。そして彼も、そんなつもりはありません。結婚を経験したことのない方は、もしかしたらわからない感覚かもしれませんが、夫婦というのはある意味「戦友」なのです。お互いに、共に人生を歩んで行くと決めた時から、一蓮托生の間柄。わたしたちは1年間の遠距離恋愛と4年間の同棲生活の末での入籍でしたので、お互いに恋愛感情はずっと抱きながら、9年間共に生活をしてきました。お互いに空気のように、そこに居てくれて当たり前で、でもそんなの当たり前なわけなくて、確かに大切な存在。困難も不幸も、一緒に乗り越えてきました。それこそが「支合わせ」で、それこそが「幸せ」でした。

 

そんな一蓮托生の生活をした男女というのは、恋愛感情がなくなっても、いくら憎しみ合った過去があっても、わたしたちのように再びわかり合えば、お互いの幸せを望み、お互いの幸せを喜び、また笑い合って話が出来るようにもなります。お互いの思考の癖も熟知しているし、だからこそお互いの成長を喜び合い、何かあったら心配もし合う。それでも、お互いにいい意味で距離がある。だから信頼をしながら見守ることも出来る。わたしはこれも「無条件の愛」だと思っています。無条件の愛なんて、何もツインレイ同士だけで学ぶことじゃない。わたしは今も元夫のことは、愛しています。彼の名前には勇気の「勇」という字があるのですが、彼こそがこの世界で最も勇ましい、最も勇敢で、素敵な男性だと思っています。その彼の妻であれたあの日々は、わたしの人生の誇りです。

 

そんな元夫とのエピソードを、いずれブログにまとめたいと思っていました。わたしは、今の段階では、【前前前世からずっと。来来来世までもいつまでも。 - わたしはここにいるよ】に綴ったロイくんがツインレイで、【【前編】予備校の彼。あなたのこと、忘れません。 - わたしはここにいるよ】と【【後編】予備校の彼。あなたのこと、忘れません。 - わたしはここにいるよ】で綴った予備校の彼と、元夫がツインフレームだと思っています。フレームの言葉通り、燃え上がりましたし。何より「予備校の彼」に出会って、彼の素敵な人生観を学ばなければ、その後その別れによって関東から九州へと引っ越し、その九州の地で元夫に出会い、彼の人に対する無償の愛し方を学ばなければ、ロイくんには出会えなかっただろうし、そんな彼らが、誰がツインフレームだろうと誰がツインレイだろうと、そんなの関係ないぐらい、わたしと出会ってくれたことに感謝しているし、彼らのことは今でも本当に愛しています。いくら頭がお花畑って思われても、誰もがそんな「切り分けた果実の片方のように、あなたは今でも私の光」とする、大切な人は、いるはずだから。

 

そんな、今でも、わたしのひとつの「光」であり、長い間わたしの人生の「光」そのものであった、ツインフレームだと思っている元夫。本名は出せませんので………「勇気(仮名)」とします。勇気さんとの、出会いから別れ、そして今現在のエピソードを、お話させていただけたらと思います。

 

関東から九州へと引っ越して。

わたしは「予備校の彼」と18歳の時にお別れをし、大学を中退し、高校も卒業していなくて、大検を取得してから臨んだ大学入試でしたので、中卒以上のまともな学歴も何も持たないまま社会に出、そこで知り合った男性とおつきあいをしていましたが、20歳の時に「予備校の彼」との思い出の地から離れたい一心で、関東から九州へと引っ越す道を選びました。表向きは、九州にいいお医者さんがいるから、15歳の時から抱えているうつ病の治療の場を移す、という名目でした。なぜ、それが九州だったのか。当時は、東日本より西日本の方が、精神医学が発達している傾向があったのも、もちろん1つの理由でしたが、九州は、わたしの父の故郷だったのです。そんな父の、最後の転勤の場が、父の故郷の九州でした。わたしは20歳の時、障害や病が邪魔をしてまだ完全に経済的自立が出来ておりませんでしたので、父の転勤についていくという意味もありました。わたしの本籍も、ずっと九州にありました。一度も住んだことのない、自身の本籍がある、九州の地。韓国に住んでいた幼稚園年長〜小学4年生までの間には、よく一時帰国をする際に九州の祖父母の家に泊まらせてもらっていたし、訪れたことがないわけではありませんでしたが、言葉使いが形成される期間や、学生時代のほとんどを標準語圏で育ったわたしには、九州へ引っ越したばかりの時は最初は戸惑うばかりで、環境の変化が大きく、その全てがストレスでした。自分で選んだ道なのだけど。「本当に、九州に来てよかったのだろうか」そんなことばかり、日々考えていました。

 

一番のストレスの理由は、たぶん、言葉使いでした。九州ならではの方言に、本当に、いつまでも慣れない。あれから14年経った今ではわたしも「〜やけん」とか「〜やろ?」とか、会話の中でちょっとした方言は出ますし、九州のほとんどの方言は理解出来ます。耳から入ってくる言葉っていつの間にか自分のものになるんだなってしみじみ思うのですが、当初は「〜やけん」「〜だけん」と話をしている人達が、まるで「喧嘩でもしてるのかな?」としか思えなかったし、人情厚い土地柄だからこそ、熱弁してくる方々に「な、なんか、こわい。」としか思えず、また主治医になった医師に「飛び降りをしたばかりなのだろう?今は社会復帰は目指さず、自宅で療養をしなさい」と言われていましたので、ずっと自宅にこもっていました。

 

飛び降り自殺未遂への経緯

わたしはこの九州に本格的に住まいを移す前に、少しの間九州の精神科病棟に入院をしていました。当時の服用していた薬の量にまだ身体も脳も慣れていなかったので、なぜ20歳の時に住まいが関東のまま九州の病院に入院をしていたのかは忘れてしまったのですが、わたしは当時千葉で一人暮らしをしていて、わたしより先に両親が九州に引っ越し、住まいを構えていたのは覚えています。その海近くの精神科病棟は閉鎖病棟ではなかったのに、あまりに閉鎖的な空気が強く、その病院での患者同士の人間関係が本当に苦痛でした。「あいつは関東から来たよそ者」という空気の中で、理由は、きっと、わたしがみんなとは違う標準語だからで、わたしは転勤族の家庭でしたし、当時のわたしにとっては「東京も千葉も神奈川も埼玉も、全部わたしの故郷」だったのです。そこに明確な区別なんてない。関東間でも何回も引っ越したから。そんなわたしが「関東から来ました」と言うと「東京?」と訊かれる。「いや………東京というか………千葉というか………」と答えると、「千葉なんだろ。見栄はるなよ」と、返ってくる。千葉も東京も、あんま変わんないよ。主に人が住む場所か、主に人が働く場所かって違いだけだよ。その境目に住んでいたし。そんな言葉は返せず。病院の環境もあまりよくなくて、精神状態ももともと乱れていたのもあって、ある日の夜中、突発的に病室の窓から飛び降りてしまったのです。その精神科病棟の病室が高いところにあったこと、病室の窓が患者が開けられるような作りになっていたのにも問題はありましたが、その飛び降りる直前には、家族の顔も友人の顔も当時お付き合いをしていた男性の顔も、誰1人として浮かばず「飛び降りない」という選択肢がわたしの頭の中にありませんでした。

 

暗闇の中を空を飛ぶ勢いで飛び降り、一瞬で地面に叩きつけられました。言葉なんかでは表せない痛みが全身を駆け抜け、どうやら、腰から着地したようでした。わたしの身体、裏返ってる。でも、何故か下にあった背の低い木々たちがクッションになったようでした。なんでこんなところに、木があるんだ。飛び降りる前には確認出来なかった。意識はありましたが、とても動けたものではありませんでした。異変に気づいた看護師さんがかけつけ、救急搬送。レントゲンをとり、腰椎の粉砕骨折が確認されました。あと一歩間違ったら、下半身不随になっていたとのこと。というか、よく下半身不随にならなかったなと思います。わたしが下半身不随にならなかった理由の1つが「もともと持って生まれた背中にある神経の通る道が、人よりも太かったから」だと、その後手術を担当した整形外科の医師は話しました。その神経の通る道が人よりも太くなければ、粉砕骨折した腰椎の骨に圧迫された時に神経が横に逃げれず、刃のように骨折した骨が神経を貫き、下半身不随になっていたとのことです。しかし、奇跡的に命が助かり、下半身不随は免れたとはいえ、最初は自力で尿が出せませんでした。もちろん、寝たきりです。腰に金属ボルトを6本埋めなければ、起き上がることさえ出来ないとのこと。骨折したばかりで炎症がひどいので、手術が出来る日は、1ヶ月先でした。本当に、馬鹿なことしたね。飛び降りないっていう判断、あの時は、どうしても出来なかったけどさ。ハンパない痛みとともに、中途半端に助かって、また「予備校の彼」と別れた時のように、自分の身体を傷つけてしまったのでした。

 

はじめての閉鎖病棟

救急センターから総合病院に移り、その中の精神科病棟に入院しながら、整形外科の手術の日を待つことになりました。その時にはじめて閉鎖病棟に入りました。その総合病院の精神科病棟は、精神疾患を治療するための入院施設というよりは、他の整形外科や呼吸器科の治療を受ける精神疾患患者のための入院施設、という意味合いが強く、そのために他の精神科病棟に比べて、患者の年齢が高い傾向がありました。もちろんわたしのような若い歳の患者さんもいましたが、平均年齢はかなり高かったです。そして、保護室だらけでした。こんなにたくさん保護室がある。そこからの、悲痛な患者の叫びが、毎日、聞こえる。

 

自力で尿が出せないことから尿管のパイプを装着したまま、寝たきりの毎日。食事も食べさせてもらっていましたし、排便もベッドの上で済ませ、看護師さんに処理してもらっていました。お風呂にも入れないから、髪を寝たきりのままシャンプー台で洗ってもらい、身体は濡らしたタオルで拭いてもらっていました。本当に情けない状態。しかし、こんなに周りの人を巻き込んでおいて失礼なことだと思うのですが、わたしは、飛び降りる前よりも精神状態は安定していました。「助かっちゃったけど。今は、腰を治すことにだけ集中しよう」そう思ったわたしは、なぜかうつ病の症状は落ち着きつつあったのです。これはわたしの今の主治医も納得しています。「精神疾患を患っている人間が、他の身体的な病を患うと、精神疾患の症状が一時的に改善されることがある」というのは、精神医学界の臨床例にはよくある話です。本当に不謹慎な話なのですが、うつ病患者がガンを患った途端に、最初だけかもしれませんが、うつ症状がなくなるというのも、よくある話なのです。

 

はじめての手術、はじめての全身麻酔

そうして比較的落ち着いた精神状態のまま、ようやく1ヶ月が経ち、手術の朝を迎えました。わたしの手術はその日一番最後の順番でした。朝から絶飲絶食。全身麻酔時に排便をしないように、浣腸をして腸の中を空っぽにしておきます。お腹すいたな……何か飲みたいな………手術をして歩けるようになったら、スタバのキャラメルフラペチーノを飲みに行こう。病室の窓から見える海岸近くの空を見ながら、そんな事を考えていました。手術には輸血が必要でした。しかし、血液型が同じでも肉親からの輸血は認められず、名も知らぬ誰かからのありがたい輸血に頼ることになりました。更に骨移植も必要とのこと。わたし自身の臀部から骨を一部とり、移植するとの説明を受けました。そしてわたしはまだ若い女性だから、という整形外科の担当医のはからいで、抜糸の必要ない、身体に溶けるタイプの糸で傷口を縫い、なるべく傷口がきれいに1本の線で残るようにする、と言われました。けれど、20歳でこれだけの金属ボルトを腰に埋めた事例は、今までにないとのこと。金属ボルトは身体には異常の出ない物質で出来ているけれど、将来は、どうなるかは、わからない。そう言われました。それは覚悟の上でした。全てが元通りになるなんて、思っていない。あの夜わたしは死んだはずなのに。整形外科の担当医は本当に気さくな初老の医師で、わたしの今回の事情をすべて知った上で「大丈夫、大丈夫。任せんしゃい」と、笑っていました。「がんばります。よろしくお願いします」わたしは下げられない頭で、そう言いました。

 

夕方になり、いよいよ手術の順番がまわってきて、左の手首に本名のフルネームが書かれたバンドをつけ、寝たきりのままなんとか手術着を着せてもらい、生まれてはじめて手術室に入りました。寝たままだから、あまりよく見えないけれど、ドラマでしか見たことのない手術室。この手術での全身麻酔は、まず背中の脊髄から麻酔を注射します。痛いのかな。と思った瞬間から記憶がありません。目が覚めたら、手術室を出るところでした。廊下の窓から見える、もう、真っ暗になっている空。なんとなく、病院の廊下も闇の中みたい。世界って、こんなに暗かったっけ。ぼんやりした頭でそんなことを思いました。この時の麻酔科の医師が上手だったのだと思うのですが、麻酔から目が覚めた際の異常な寒気がまったくありませんでした。その代わりに、ひどい痛みでした。「大丈夫、大丈夫。任せんしゃい」と笑っていた初老の医師が、ロマンスグレーの髪がボサボサで、疲労困憊の表情をしていました。「疲労困憊やわ」そう言っていました。6時間にも及ぶ手術だったそうです。その日一番最後の手術が、その日一番の大仕事だったと言っていました。「若い女の子が、飛び降りたって言うから。無理やり、スケジュールに組み込んだ。」そう言って、いつもはサラサラなロマンスグレーの髪が汗で乱れ、疲労困憊なはずの医師は、笑いました。身体からは、輸血の管が出ています。わたしの顔の隣に、どこのどなたかもわからない、ありがたい、わたしと同じ血液型の、血のたくさんつまった袋がある。他にもたくさん身体に管がついていました。「…………痛い、です……」そう言うわたしに、そのロマンスグレーの初老の医師は「痛かったらな、このボタンをカチカチッとしなさい」と、身体に繋げられた管のひとつにつけられていた、ボタンのようなものを手に持たせてくれました。ボタンを押すと、痛み止めの薬が流れるような仕組みになっているようでした。両親が、その医師に頭を下げているのが見えました。

 

あの術後の晩に、飲んだ薬

手術室から病室に戻ってきました。両足には医療用着圧タイツが履かされています。確か長時間全身麻酔をした術後の、何かの対策です。ちょっとこれ、きつすぎるな。痛いよ。その晩はたくさんの看護師さんが、術後の面倒を見てくれました。何をしているのかはわかりません。ただ、みんな慌ただしく、バタバタと動き回っています。手術、無事に終わったのに。何を、そんなにすることがあるのだろう。睡眠薬を飲んだ身体で、ぼーっとしながら、そんな呑気なことを考えていました。横たわるわたしの隣には、おそらく心拍と脳波をはかり、その数字が表示されているのだろうモニターがあります。暗闇の中で不自然に光り、電子的なピッ、ピッ、ピッ、ピッ………という音が鳴っていました。睡眠薬を飲んで眠っても、腰の痛みから目の覚めてしまうわたしに、その晩はじめて「リスパダール」という薬が処方されました。今では広く使われている精神安定剤のひとつですが、強い眠気のくる副作用があることから、その副作用を利用するとのこと。再び眠気を促すために、苦いような酸っぱいような味の液体のその薬を看護師さんがスポイトですくって飲ませてくれました。7mg飲んだと思います。そのリスパダールという薬が、わたしの精神状態によく効くという理由から、その後の長い治療にも用いられるようになり、12年間わたしの排卵を止めました。必ず子供を産むことが、女の役割だなんで、そんなことは思っていないけど。この20歳の時の手術の晩にこの薬を飲んだことがきっかけになり、その後10年の人生を共にするパートナー、勇気さんとの間に、わたしは子供を授かることが出来ませんでした。

 

そんな勇気さんとの出会いが、そんな勇気さんとの未来が待っているなんてつゆ程も知らず、暗闇の中の不自然な光が点滅する中、耳の横の、わたしの心拍なのだろう電子音を聞きながら、看護師さんたちがバタバタと動き回るのを感じつつ、その晩は再び眠りにつきました。

 

 

とりあえず今日はここまで。

勇気さんとのエピソードがなかなか始まらないね!自分でも書いていてびっくりです。彼との出会いまでにも、彼とのエピソードをお話するために欠かせない出来事がたくさんあったので、なかなか始まりません。本当にいつか始まるんだろうか!あとちょっとなはずなんだけど!

 

あとみんな!【わかりみの深い「完全自殺マニュアル」 - わたしはここにいるよ】でも話したけど、飛び降りても、死ねないからな!ハンパなく苦しむだけだから!だいたい中途半端に助かるだけだから!この手術の翌日からもかなり苦しんだから!次に更新する時に詳しく話すけど。そこまで追い詰められたら、なかなか「飛び降りない」って判断出来ないと思うけど、絶対に飛び降りんなよ!!!!!!

 

それでは今日のところは、このへんで。

また、この場所で会いましょう。

大丈夫。この他にも何回も自殺企図したけど、いつも死ねないから。

それでも生きてりゃ、なんとかなるから。

 

そんな、学習能力のない、ひたすら頭の悪いわたしは、ここにいるよ。

 

続きを更新しました。

【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

ぜひ、お時間の許す時にページをめくりに来てくださいね。平成の医療が起こした、たくさんの「奇跡」です。

 

葉月ひろな

Twitter @hazukihirona

hazukihirona@gmail.com

 

あなたの想っている人がツインレイじゃなかったら。その時、あなたは?

こんばんは。葉月ひろなです。

 

昨日まつげエクステに行ってきたのですが、マツエクサロンが満席だったので、提携してるネイルサロンでの施術だったのです。マツエクサロンはだいたいが個室で(そうじゃない場合もありますが)リラックスミュージックが流れているのが一般的ですが、ネイルサロンにはよくテレビが置いてあって映画のDVDが流れていることが多いです。いつもならリラックスミュージックを聴きながら目を閉じてまつげエクステを付けてもらいますが、昨日はネイルサロンの1角での施術でしたので、テレビに流れているDVDの音声を聞いていました。なんともつまんないDVDで、なんだか昼ドラのようにドロドロしてて(女ってこういうの好きだよな……同じ女だけど、その気持ちまったくわからんわ……)と思いながら、ひたすらつまんなかったので、ロイくんのことばかり考えていて、彼との日々を映画のように頭の中で映像化して楽しんでいました。そしたらロイくんが「名前!漢字!」とわたしに言ってきた時のことを思い出している時に、ネイリストさんが「君の名は。」のDVDに変えてくれて。(おぉ……これが噂の「君の名は。」か……!)と、ちょっと感動しました。思考と映画のタイトルがシンクロしたのにも感動しましたが、わたし、「君の名は。」観たことがないので。「君の名は。」というタイトルで主題歌が「前前前世」ってことしか知らないので。それでよく前前前世からずっと。来来来世までもいつまでも。 - わたしはここにいるよ(ロイくんとのエピソード)を書けたな!って感じなのですが、ずっと興味のあった映画なので、目を閉じながらめっちゃ聞き耳立ててました。この映画の放映がスタートしたのが、ちょうどロイくんと出会ったばかりの時で、彼と出会ったコンビニにもこの映画の宣伝ポスターをつけていて、そのポスターを店頭ではじめて見た時、タイトルに本当に驚きました。「君の名は?」なんて紳士的に語りかけられたわけではありませんでしたが、ロイくんにはじめて日本語で話しかけられた言葉が「名前!漢字!」だったので。なので映画の内容を観ずに(君の名は。は、ツインレイの物語なんだろうな)とずっと思っていました。「ふたりはプリキュア!」みたいな「ふたりはツインレイ!」っていう。いや、そういうプリキュアみたいなノリだとはもちろん思っていませんでしたけど。そういう解釈があるってだけなんですね。いやでも「君の名は。」ってタイトルで「前前前世」が主題歌って、なんかもうそこからしてそういう解釈しか出来ないです、わたし。それにしても三葉役の声優さん、かわいかった。映画が終わる前に施術が終わったので最後まで聞き耳立てられませんでしたが、良い時間でした。

 

ところで。「ふたりはツインレイ」。そんなん誰にもわかんないでしょ。本当にツインレイかどうかなんて、誰にもわかんないでしょ。って、わたしは思っています。ツインレイ鑑定とかよくありますし、そのすべてが嘘だとは思っていませんけど、本当にツインレイ鑑定が出来る方とかチャネリングでわかる方とかいらっしゃるんでしょうけど、宇宙や守護霊やハイヤーセルフって、その答え、簡単に教えちゃうもの?ってわたしは思うのです。少なくとも、わたしはオラクルカードでハイヤーセルフに訊いた時は、嘘ばっか教えてきました。「彼とわたしはツインレイですか?」とカードをひいたら「Yes」って出たかと思うと「No」って出て、「たぶん違います」とか言うふんわりしたカードのあとに、「絶対にそうです!」って断言するカードが出てくる。どっちなんだよ。やる気ねーなお前ら。って思った。オラクルカードは、ハイヤーセルフが引いているんですよ。あんなに宛にならないオラクルカードははじめてでした。なので「ツインレイか否か」でオラクルカードを引くことはおすすめしませんし、あなたのハイヤーセルフはその事に関しては高確率で嘘ついてくるか、教えてくれません。「あなたが信じるのなら」とか出てくるんじゃないかな。しかもアプリやネット上でのオラクルカードには魔が入りやすいですからね。一番魔が入らないのは紙のカードですが、それでもハイヤーセルフはツインレイかどうかに関しては簡単には教えてくれないと思います。

 

そもそもツインレイ鑑定とかで「ふたりはツインレイです!」って言われたから、だから何なの?ってわたしは思います。そしたら相手のこと大事にするの?サイレント期間もがんばれるの?そんな確証がないと大事に出来ないの?サイレント期間乗り越えられないの?それ、もう「無条件の愛じゃない」と思うよ。そりゃサイレント期間が長すぎて、これはわたしの片思いなだけなの?彼を待ち続けて本当に意味あるの?って気持ちになるのはわかりますが、だから何なの?自分で決めなよ。彼との再会を待つか、他のソウルメイトと人生歩むかなんて、自分で決めなよ。わたしは仮に、ロイくんとの再会を待ち続けて、この先は誰とも恋愛関係にならないとしても、何も後悔はありません。この先も恋愛関係になるようなソウルメイトには出会うと思います。実際に出会って新しい恋もしたし。その男性のことは偽ツインレイだったなと思っています。あまりにいつも体調も感情もシンクロする上に、日々エンジェルナンバーだらけ。歩んできた人生にも共通点がありすぎて、足りないところは補い合える。いつもわたしを全肯定してくれる。でも、いつしか全然満たされなくなり、お金も愛も搾取されてばかりで、どんどん相手に対する負の感情に嘘がつけなくなっていく。そんな関係だったから。しかも最後は本気で首を絞められ、殴られました。鼻の骨折れたよ。おかげで骨をくっつける手術受けたらもとの鼻より少し高くなったけど。その後にひたすらロミオメールで復縁迫られましたが、どう考えても無理でしょうよ。ジュリエットの恋心はもう蘇らないよ。

 

でもこの先また恋愛関係になるようなソウルメイトやツインソウル、ツインフレームに出会おうと、ツインレイだと思っているロイくん以上に愛せないなら、この先は誰かと恋愛関係になることさえ相手に失礼だなと思っています。ロイくん以上に惹かれて愛せると思う相手に出会ったら、また恋すると思いますよ。ただ、今のわたしには、ロイくんが一番愛しい。ロイくんが世界で、宇宙で一番愛しい。彼が人類史上一番素敵な男性。彼の魂が宇宙史上一番素敵。彼がツインレイではないとしても、彼がわたしの今世の人生の中で一番素敵な男性。存在そのものと、ただ世界に居てくれるだけで、こんなにも愛しい。理由なんて、それだけでいいと思うんだ。

 

よくサイレント期間のチェイサーは、ランナーの今の人間関係がめっちゃ気になると思う。他の誰かと一緒にいるなんて考えたら、嫉妬の塊になると思う。セックスしてるところとか想像するだけで泣けてきたり吐き気してきたりすると思う。でもさ、わたしの場合、ロイくんは11歳も年下なんですよ。つまり今、23歳。そんな彼が新しい恋していないわけないし、誰かとセックスしていないわけない。むしろしっかり学んでこい、と思います。自分だけが気持ちよくなるような恋愛やセックスだけは覚えんなよ、と思います。特にわたし、彼とセックスしたことないから。わたしとしなかった体験を他の人として、ちゃんと学んできてほしい。別に再会した時にわたしとセックスしてわたしのことも気持ちよくして、ではなくて。だって「もう1人の自分」だから。わたしと一緒にいなくても、しっかり人生学んできてほしいし、わたしと一緒にいなくても、彼は最高の人生を手にすると思います。自分自身への信頼と同じぐらい、彼を信頼しているから。わたしが出来ない経験をたくさんしてきてほしい。じゃなきゃ何のために遥か昔に2人に分かれたのかわかんない。2人に分かれた方がたくさんの経験が出来て、たくさんの学びが得られるからなのに。これからもわたしがちゃんと成長して、いつしか闘い傷ついた彼がわたしのもとに「再会」という形で帰ってきたら、これでもかと受け止めて癒やすから、たくさんたくさん、人生学んできてほしい。

 

ツインレイ界隈は圧倒的に女性が多いし、しかも女性は男性よりも精神世界に重きを置く傾向があるから、スピリチュアルな概念が背中を押して、なんか歯止めがきかなくなることあるじゃないですか。それ、ツインレイの男性はあまり好きじゃないと思う。男性はやっぱりスピリチュアルな概念は苦手な人が多いし、どうしても現実主義。男と女の脳の違い。だからスピリチュアルな世界にどっぷりつかっている女性レイは、もっと現実を見た方がいい。それが前回の記事【追記あり】うつ病患者にもツインレイのチェイサーにも必須「インナーチャイルドの癒やし」のすすめ - わたしはここにいるよにも書いた「3次元を動かす力」。女性レイは男性レイに頼らず、3次元を自らの力で変えていく喜びを学ばなきゃならない。そして男性レイは、そんな女性レイのスピリチュアルな概念を理解出来るようになったら、それこそふたりは無敵だと思う。

 

ツインレイのチェイサーは「出た!それただのお前の片思い」って言われること承知の上で、日々がんばらないと。同じスピリチュアル界隈でもツインレイ信者にはこう言いたくなることは絶対にある。むしろこう言われたぐらいで憤慨したり、軸がブレたりするぐらいなら、所詮その程度。

 

あなたが、愛したいんでしょ?

あなたが、愛そのものに還りたいんでしょ?

 

誰かに「ふたりはツインレイです」と言ってもらえないと愛せない、というのは、違うと思います。そして彼を待ち続けるか否かなんて、自分で決めないと。じゃないと「ふたりはツインレイです」と言われても何年経っても統合しなかったら、ツインレイ鑑定してくれた人を恨むでしょ。彼を待ち続けずに他のソウルメイトと人生歩むことにして、それが誰かからのアドバイスに従ったからだとしたら、うまくいかずに加えてツインレイと信じていた人と再会して、そのツインレイとその先の人生でうまくいかない感じになったら、その誰かを恨むんでしょ。それ、なんかもう人としてどうかと思うんだ。彼との日々やサイレント期間中に5次元以上の魂の世界を経験したとして、今わたしたちが居るのは3次元だから。ツインレイの相手も、5次元では繋がっているとして、この世界に存在しているのは3次元の1人の人間だから。ランナーが連絡手段を断っていることにも理由があるから。わたしもサイレントになってからフェイスブックメッセンジャーに2回「元気ですか」と「メリークリスマス」って連絡しちゃったことあったけど、既読にさえならないのには理由があるから。「今の俺では、こいつを幸せにできない」?いやいや、単純に連絡がウザいんだと思うよ。

 

そして、わたしとロイくん、こんだけツインレイセオリーにぴったりハマる出会いと出来事がありましたが(詳細は前前前世からずっと。来来来世までもいつまでも。 - わたしはここにいるよ)お空に還ってから「ぼく、ツインレイじゃありません」も全然あり得ると思っています。そんなん別に関係ないよ。ただ、あなたが今世で一番素敵だっただけ。一番魅力的だっただけ。そんなあなたに見合う女になりたかっただけ。そんな感情を経験させてくれて、ありがとう。としか思いません。

更に偽ツインレイだと思っている男性が「ぼくが本物ツインレイです!」でも、別に構わない。自分の片割れが今世どうやっても愛せないぐらい成長をサボってしまっていただけ。お前ほんとあり得なかったわ。どうやってもお前と統合する気にはなれんかったわ。来世でリベンジだからな。次こそはがんばれよ。で、済む。

更に更に言うならば「予備校の彼」と「11年を共にした元夫」。彼らのことはツインフレームかしら?って思っているけれど、「俺がツインレイやねん」でも全然構わないし、あり得ると思う。それだけ彼らに向けた愛にも偽りはなかったし、2人ともとても素敵な男性だった。今世は、お互いに別れを選ぶしかなかったね。別々の道を進んでからの人生どうだった?わたしはね、国境を越えて恋してた!って笑いながら話せる。

 

わたしツインレイ界隈に約2年ぐらい身を置いています。ツインレイに関するブログも、ツインレイに関するツイートも、たくさん見てきました。ぶっちゃけ、「いや、もうそれただのあなたの片思いなだけだから」と感じる人大勢いるし、「その関係、ツインレイなわけない」と感じる人もいっぱいいるし、「この人、ツインレイ何人いるんだろう」って人もいる。仮にツインレイ鑑定が出来る人に「あなたが想っている相手は、ツインレイではありません」って言われたら、あっけなく相手への想いを手放すんだろうな、って人もたくさんいる。そんなわたしも、「いい歳して、11歳も年下の男に片思いしてる。草草。」って草生やされることもあるってわかっているし、むしろ「早く自分から会いに行って現実見てこいよ」って思われているのもわかっている。でも、だから何?ツインレイじゃないとして、だから何?この人生は、ジャーニーは、わたしが選ぶ。今の現実だって、全てわたしが選んできた結果だから。嘆くことはあっても、後悔することがあっても、誰かを責めた過去があっても、パラレルワールドに行きたいと思っても、全部自己責任だから。仮に満たされていないとして、そこから立ち上がるのは、わたし自身だから。

 

全てにおいて、無条件になるのがツインレイ。仮に再会が来世だとして。それで愛せなくなる相手ではない。ただのわたしの片思いだとして。後悔なんか何もない。誰かに決めてもらう人生なんて、誰かのせいにする人生なんて、かっこ悪い。わたしはいくら毒親だろうと、それでも自らあの両親を選んで生まれてきたと思っています。わたしが学びたい「無条件の愛」を学ぶためには、必要な出生だった。そして親から愛されなかったことによって患った病を、自らの力で立ち上がって治した際の景色を、わたしは見に来た。その上で、両親への慈愛を学びに来た。別に全部自分のせいだなんて思わなくていい。必ずすべてを許しなさいなんて言わない。けれど。誰かのせいにする人生だけは、歩みたくない。誰かに決めてもらう人生だけは、歩みたくない。

 

そんなツインレイプログラムを、そんなツインソウルジャーニーを、誰もが歩んでほしいと思います。相手がツインレイじゃなかったら、愛せないの?ツインレイだから、好きなの?ツインレイだから、今のジャーニーを選んでいるの?もう一度、自問自答してほしいと思います。あなたの人生は、あなたが選んで決めるもの。その上でスピリチュアルな知識を学んで、現実を動かしていきましょう。わたしたちが3次元という物質世界に生まれてきたのは、すぐに願いが叶わない過程を楽しみにきたのです。そして肉体の命尽き果てる時に、すべての物質を手放して、それでも「しあわせだ」と言える自分になりにきたのです。前世だとか過去生だとか宇宙での記憶なんて明確には思い出せないとして。あなたは今世、どんな自分になりたいですか?わたしは、今よりも強く、今よりもしなやかに、そして、誰になんと言われようと「こんな自分、大好きだ」と胸をはって言える人生を、歩みたいです。

 

だってわたしは、ツインレイではないとしても、そんな条件さえも抜きに彼を、ロイくんを愛しながら、確かに3次元「今ここ」にいるから。

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葉月ひろな

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