わたしはここにいるよ

インターネットの片隅で愛を叫ぶ

【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」

なんだかまだそんな実感があまりないのですが、令和の時代が始まりましたね。これからは「H○年」ではなく「R○年」になるんですね。この記事が令和最初の記事ではないのですが………令和、始まったね!さえ言っていませんでした。なぜ、わたしがこんなにも令和の実感がないのか。それはたぶん、自宅にテレビもラジオも置いていないからなのでしょう。こんにちは。葉月ひろなです。

 

この間、日本語学校の留学生とお話をしていたら「もうすぐ令和になりますね」って話になって。その留学生は平成生まれでしたので「令和になったら、私は昔の人になります」ってかわいいこと言ってて。「いやいや、わたしは平成の前の昭和の生まれだよ」って話から日本の江戸時代まで遡って話が広がっていったのですが、昨日離婚をした元夫にこの話を電話で話していたら「昭和生まれとか、お前大昔の人間やな」とか言い出す。おちゃめな人です。そんなあなたは、もうアラフォーじゃないですか。わたしが人生の道に迷ったら、こんなスタンプを連続で送りつけてくる、おじさんじゃないですか。


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お前、本当にアラフォーか?わたし、未だにスタンプこんなに使いこなせないよ。

こんなおちゃめな、何歳になっても心は少年な元夫。【コンビニ24時間営業、ダメ。絶対。 - わたしはここにいるよ】にも書きましたが、本当に本当に愛していました。わたしの全身全霊をかけてしあわせにしたい男性でした。彼と添い遂げるしあわせな老後が、彼との生活そのものが、彼との毎日が、わたしの生きる希望でした。22歳の頃から10年間(わたしずっと11年間って思っていたけど、10年間でしたテヘペロ)彼がいてくれたから、わたしは生きてこれました。生きよう、って思えました。この人とずっと人生歩んでいくんだ。この人に出会うために、わたしは生まれてきたんだ。たくさんの出会いと別れをくぐり抜けて、この人に会いにきたんだ。そのために、わたしは生きてきたんだ。10年間本当にそう思っていました。

 

正直、わたしから手を離そうと思ってしまったことは何度もありました。男と女だし、考え方だって価値観だって、まったく別々だし、そんな2人が一緒に同じ屋根の下で生活を共にするというのは、いくら愛し合っていようと、楽しいことばかりではありません。もちろん苦しいことばかりでもなく、たくさんのしあわせを彼から贈ってもらいました。しかし、最後は、わたしから手を離してしまう形になりました。彼のサインがしてある離婚届を握りしめて家を飛び出し、自分の欄を埋めて離婚届を提出し、連絡手段も全てブロックしました。あの時は、本当にそれが精一杯だった。

 

お互いにひどく憎しみ合ったまま、2017年9月に離婚届が受理され、別々の道を歩んでいたわたしたち。今年2019年の2月に、1年半越しに和解をし、今では再び冗談を言い合える、困った時には相談にものってもらえる関係になりました。彼とよりを戻すつもりは一切ありません。そして彼も、そんなつもりはありません。結婚を経験したことのない方は、もしかしたらわからない感覚かもしれませんが、夫婦というのはある意味「戦友」なのです。お互いに、共に人生を歩んで行くと決めた時から、一蓮托生の間柄。わたしたちは1年間の遠距離恋愛と4年間の同棲生活の末での入籍でしたので、お互いに恋愛感情はずっと抱きながら、9年間共に生活をしてきました。お互いに空気のように、そこに居てくれて当たり前で、でもそんなの当たり前なわけなくて、確かに大切な存在。困難も不幸も、一緒に乗り越えてきました。それこそが「支合わせ」で、それこそが「幸せ」でした。

 

そんな一蓮托生の生活をした男女というのは、恋愛感情がなくなっても、いくら憎しみ合った過去があっても、わたしたちのように再びわかり合えば、お互いの幸せを望み、お互いの幸せを喜び、また笑い合って話が出来るようにもなります。お互いの思考の癖も熟知しているし、だからこそお互いの成長を喜び合い、何かあったら心配もし合う。それでも、お互いにいい意味で距離がある。だから信頼をしながら見守ることも出来る。わたしはこれも「無条件の愛」だと思っています。無条件の愛なんて、何もツインレイ同士だけで学ぶことじゃない。わたしは今も元夫のことは、愛しています。彼の名前には勇気の「勇」という字があるのですが、彼こそがこの世界で最も勇ましい、最も勇敢で、素敵な男性だと思っています。その彼の妻であれたあの日々は、わたしの人生の誇りです。

 

そんな元夫とのエピソードを、いずれブログにまとめたいと思っていました。わたしは、今の段階では、【前前前世からずっと。来来来世までもいつまでも。 - わたしはここにいるよ】に綴ったロイくんがツインレイで、【【前編】予備校の彼。あなたのこと、忘れません。 - わたしはここにいるよ】と【【後編】予備校の彼。あなたのこと、忘れません。 - わたしはここにいるよ】で綴った予備校の彼と、元夫がツインフレームだと思っています。フレームの言葉通り、燃え上がりましたし。何より「予備校の彼」に出会って、彼の素敵な人生観を学ばなければ、その後その別れによって関東から九州へと引っ越し、その九州の地で元夫に出会い、彼の人に対する無償の愛し方を学ばなければ、ロイくんには出会えなかっただろうし、そんな彼らが、誰がツインフレームだろうと誰がツインレイだろうと、そんなの関係ないぐらい、わたしと出会ってくれたことに感謝しているし、彼らのことは今でも本当に愛しています。いくら頭がお花畑って思われても、誰もがそんな「切り分けた果実の片方のように、あなたは今でも私の光」とする、大切な人は、いるはずだから。

 

そんな、今でも、わたしのひとつの「光」であり、長い間わたしの人生の「光」そのものであった、ツインフレームだと思っている元夫。本名は出せませんので………「勇気(仮名)」とします。勇気さんとの、出会いから別れ、そして今現在のエピソードを、お話させていただけたらと思います。

 

関東から九州へと引っ越して。

わたしは「予備校の彼」と18歳の時にお別れをし、大学を中退し、高校も卒業していなくて、大検を取得してから臨んだ大学入試でしたので、中卒以上のまともな学歴も何も持たないまま社会に出、そこで知り合った男性とおつきあいをしていましたが、20歳の時に「予備校の彼」との思い出の地から離れたい一心で、関東から九州へと引っ越す道を選びました。表向きは、九州にいいお医者さんがいるから、15歳の時から抱えているうつ病の治療の場を移す、という名目でした。なぜ、それが九州だったのか。当時は、東日本より西日本の方が、精神医学が発達している傾向があったのも、もちろん1つの理由でしたが、九州は、わたしの父の故郷だったのです。そんな父の、最後の転勤の場が、父の故郷の九州でした。わたしは20歳の時、障害や病が邪魔をしてまだ完全に経済的自立が出来ておりませんでしたので、父の転勤についていくという意味もありました。わたしの本籍も、ずっと九州にありました。一度も住んだことのない、自身の本籍がある、九州の地。韓国に住んでいた幼稚園年長〜小学4年生までの間には、よく一時帰国をする際に九州の祖父母の家に泊まらせてもらっていたし、訪れたことがないわけではありませんでしたが、言葉使いが形成される期間や、学生時代のほとんどを標準語圏で育ったわたしには、九州へ引っ越したばかりの時は最初は戸惑うばかりで、環境の変化が大きく、その全てがストレスでした。自分で選んだ道なのだけど。「本当に、九州に来てよかったのだろうか」そんなことばかり、日々考えていました。

 

一番のストレスの理由は、たぶん、言葉使いでした。九州ならではの方言に、本当に、いつまでも慣れない。あれから14年経った今ではわたしも「〜やけん」とか「〜やろ?」とか、会話の中でちょっとした方言は出ますし、九州のほとんどの方言は理解出来ます。耳から入ってくる言葉っていつの間にか自分のものになるんだなってしみじみ思うのですが、当初は「〜やけん」「〜だけん」と話をしている人達が、まるで「喧嘩でもしてるのかな?」としか思えなかったし、人情厚い土地柄だからこそ、熱弁してくる方々に「な、なんか、こわい。」としか思えず、また主治医になった医師に「飛び降りをしたばかりなのだろう?今は社会復帰は目指さず、自宅で療養をしなさい」と言われていましたので、ずっと自宅にこもっていました。

 

飛び降り自殺未遂への経緯

わたしはこの九州に本格的に住まいを移す前に、少しの間九州の精神科病棟に入院をしていました。当時の服用していた薬の量にまだ身体も脳も慣れていなかったので、なぜ20歳の時に住まいが関東のまま九州の病院に入院をしていたのかは忘れてしまったのですが、わたしは当時千葉で一人暮らしをしていて、わたしより先に両親が九州に引っ越し、住まいを構えていたのは覚えています。その海近くの精神科病棟は閉鎖病棟ではなかったのに、あまりに閉鎖的な空気が強く、その病院での患者同士の人間関係が本当に苦痛でした。「あいつは関東から来たよそ者」という空気の中で、理由は、きっと、わたしがみんなとは違う標準語だからで、わたしは転勤族の家庭でしたし、当時のわたしにとっては「東京も千葉も神奈川も埼玉も、全部わたしの故郷」だったのです。そこに明確な区別なんてない。関東間でも何回も引っ越したから。そんなわたしが「関東から来ました」と言うと「東京?」と訊かれる。「いや………東京というか………千葉というか………」と答えると、「千葉なんだろ。見栄はるなよ」と、返ってくる。千葉も東京も、あんま変わんないよ。主に人が住む場所か、主に人が働く場所かって違いだけだよ。その境目に住んでいたし。そんな言葉は返せず。病院の環境もあまりよくなくて、精神状態ももともと乱れていたのもあって、ある日の夜中、突発的に病室の窓から飛び降りてしまったのです。その精神科病棟の病室が高いところにあったこと、病室の窓が患者が開けられるような作りになっていたのにも問題はありましたが、その飛び降りる直前には、家族の顔も友人の顔も当時お付き合いをしていた男性の顔も、誰1人として浮かばず「飛び降りない」という選択肢がわたしの頭の中にありませんでした。

 

暗闇の中を空を飛ぶ勢いで飛び降り、一瞬で地面に叩きつけられました。言葉なんかでは表せない痛みが全身を駆け抜け、どうやら、腰から着地したようでした。わたしの身体、裏返ってる。でも、何故か下にあった背の低い木々たちがクッションになったようでした。なんでこんなところに、木があるんだ。飛び降りる前には確認出来なかった。意識はありましたが、とても動けたものではありませんでした。異変に気づいた看護師さんがかけつけ、救急搬送。レントゲンをとり、腰椎の粉砕骨折が確認されました。あと一歩間違ったら、下半身不随になっていたとのこと。というか、よく下半身不随にならなかったなと思います。わたしが下半身不随にならなかった理由の1つが「もともと持って生まれた背中にある神経の通る道が、人よりも太かったから」だと、その後手術を担当した整形外科の医師は話しました。その神経の通る道が人よりも太くなければ、粉砕骨折した腰椎の骨に圧迫された時に神経が横に逃げれず、刃のように骨折した骨が神経を貫き、下半身不随になっていたとのことです。しかし、奇跡的に命が助かり、下半身不随は免れたとはいえ、最初は自力で尿が出せませんでした。もちろん、寝たきりです。腰に金属ボルトを6本埋めなければ、起き上がることさえ出来ないとのこと。骨折したばかりで炎症がひどいので、手術が出来る日は、1ヶ月先でした。本当に、馬鹿なことしたね。飛び降りないっていう判断、あの時は、どうしても出来なかったけどさ。ハンパない痛みとともに、中途半端に助かって、また「予備校の彼」と別れた時のように、自分の身体を傷つけてしまったのでした。

 

はじめての閉鎖病棟

救急センターから総合病院に移り、その中の精神科病棟に入院しながら、整形外科の手術の日を待つことになりました。その時にはじめて閉鎖病棟に入りました。その総合病院の精神科病棟は、精神疾患を治療するための入院施設というよりは、他の整形外科や呼吸器科の治療を受ける精神疾患患者のための入院施設、という意味合いが強く、そのために他の精神科病棟に比べて、患者の年齢が高い傾向がありました。もちろんわたしのような若い歳の患者さんもいましたが、平均年齢はかなり高かったです。そして、保護室だらけでした。こんなにたくさん保護室がある。そこからの、悲痛な患者の叫びが、毎日、聞こえる。

 

自力で尿が出せないことから尿管のパイプを装着したまま、寝たきりの毎日。食事も食べさせてもらっていましたし、排便もベッドの上で済ませ、看護師さんに処理してもらっていました。お風呂にも入れないから、髪を寝たきりのままシャンプー台で洗ってもらい、身体は濡らしたタオルで拭いてもらっていました。本当に情けない状態。しかし、こんなに周りの人を巻き込んでおいて失礼なことだと思うのですが、わたしは、飛び降りる前よりも精神状態は安定していました。「助かっちゃったけど。今は、腰を治すことにだけ集中しよう」そう思ったわたしは、なぜかうつ病の症状は落ち着きつつあったのです。これはわたしの今の主治医も納得しています。「精神疾患を患っている人間が、他の身体的な病を患うと、精神疾患の症状が一時的に改善されることがある」というのは、精神医学界の臨床例にはよくある話です。本当に不謹慎な話なのですが、うつ病患者がガンを患った途端に、最初だけかもしれませんが、うつ症状がなくなるというのも、よくある話なのです。

 

はじめての手術、はじめての全身麻酔

そうして比較的落ち着いた精神状態のまま、ようやく1ヶ月が経ち、手術の朝を迎えました。わたしの手術はその日一番最後の順番でした。朝から絶飲絶食。全身麻酔時に排便をしないように、浣腸をして腸の中を空っぽにしておきます。お腹すいたな……何か飲みたいな………手術をして歩けるようになったら、スタバのキャラメルフラペチーノを飲みに行こう。病室の窓から見える海岸近くの空を見ながら、そんな事を考えていました。手術には輸血が必要でした。しかし、血液型が同じでも肉親からの輸血は認められず、名も知らぬ誰かからのありがたい輸血に頼ることになりました。更に骨移植も必要とのこと。わたし自身の臀部から骨を一部とり、移植するとの説明を受けました。そしてわたしはまだ若い女性だから、という整形外科の担当医のはからいで、抜糸の必要ない、身体に溶けるタイプの糸で傷口を縫い、なるべく傷口がきれいに1本の線で残るようにする、と言われました。けれど、20歳でこれだけの金属ボルトを腰に埋めた事例は、今までにないとのこと。金属ボルトは身体には異常の出ない物質で出来ているけれど、将来は、どうなるかは、わからない。そう言われました。それは覚悟の上でした。全てが元通りになるなんて、思っていない。あの夜わたしは死んだはずなのに。整形外科の担当医は本当に気さくな初老の医師で、わたしの今回の事情をすべて知った上で「大丈夫、大丈夫。任せんしゃい」と、笑っていました。「がんばります。よろしくお願いします」わたしは下げられない頭で、そう言いました。

 

夕方になり、いよいよ手術の順番がまわってきて、左の手首に本名のフルネームが書かれたバンドをつけ、寝たきりのままなんとか手術着を着せてもらい、生まれてはじめて手術室に入りました。寝たままだから、あまりよく見えないけれど、ドラマでしか見たことのない手術室。この手術での全身麻酔は、まず背中の脊髄から麻酔を注射します。痛いのかな。と思った瞬間から記憶がありません。目が覚めたら、手術室を出るところでした。廊下の窓から見える、もう、真っ暗になっている空。なんとなく、病院の廊下も闇の中みたい。世界って、こんなに暗かったっけ。ぼんやりした頭でそんなことを思いました。この時の麻酔科の医師が上手だったのだと思うのですが、麻酔から目が覚めた際の異常な寒気がまったくありませんでした。その代わりに、ひどい痛みでした。「大丈夫、大丈夫。任せんしゃい」と笑っていた初老の医師が、ロマンスグレーの髪がボサボサで、疲労困憊の表情をしていました。「疲労困憊やわ」そう言っていました。6時間にも及ぶ手術だったそうです。その日一番最後の手術が、その日一番の大仕事だったと言っていました。「若い女の子が、飛び降りたって言うから。無理やり、スケジュールに組み込んだ。」そう言って、いつもはサラサラなロマンスグレーの髪が汗で乱れ、疲労困憊なはずの医師は、笑いました。身体からは、輸血の管が出ています。わたしの顔の隣に、どこのどなたかもわからない、ありがたい、わたしと同じ血液型の、血のたくさんつまった袋がある。他にもたくさん身体に管がついていました。「…………痛い、です……」そう言うわたしに、そのロマンスグレーの初老の医師は「痛かったらな、このボタンをカチカチッとしなさい」と、身体に繋げられた管のひとつにつけられていた、ボタンのようなものを手に持たせてくれました。ボタンを押すと、痛み止めの薬が流れるような仕組みになっているようでした。両親が、その医師に頭を下げているのが見えました。

 

あの術後の晩に、飲んだ薬

手術室から病室に戻ってきました。両足には医療用着圧タイツが履かされています。確か長時間全身麻酔をした術後の、何かの対策です。ちょっとこれ、きつすぎるな。痛いよ。その晩はたくさんの看護師さんが、術後の面倒を見てくれました。何をしているのかはわかりません。ただ、みんな慌ただしく、バタバタと動き回っています。手術、無事に終わったのに。何を、そんなにすることがあるのだろう。睡眠薬を飲んだ身体で、ぼーっとしながら、そんな呑気なことを考えていました。横たわるわたしの隣には、おそらく心拍と脳波をはかり、その数字が表示されているのだろうモニターがあります。暗闇の中で不自然に光り、電子的なピッ、ピッ、ピッ、ピッ………という音が鳴っていました。睡眠薬を飲んで眠っても、腰の痛みから目の覚めてしまうわたしに、その晩はじめて「リスパダール」という薬が処方されました。今では広く使われている精神安定剤のひとつですが、強い眠気のくる副作用があることから、その副作用を利用するとのこと。再び眠気を促すために、苦いような酸っぱいような味の液体のその薬を看護師さんがスポイトですくって飲ませてくれました。7mg飲んだと思います。そのリスパダールという薬が、わたしの精神状態によく効くという理由から、その後の長い治療にも用いられるようになり、12年間わたしの排卵を止めました。必ず子供を産むことが、女の役割だなんで、そんなことは思っていないけど。この20歳の時の手術の晩にこの薬を飲んだことがきっかけになり、その後10年の人生を共にするパートナー、勇気さんとの間に、わたしは子供を授かることが出来ませんでした。

 

そんな勇気さんとの出会いが、そんな勇気さんとの未来が待っているなんてつゆ程も知らず、暗闇の中の不自然な光が点滅する中、耳の横の、わたしの心拍なのだろう電子音を聞きながら、看護師さんたちがバタバタと動き回るのを感じつつ、その晩は再び眠りにつきました。

 

 

とりあえず今日はここまで。

勇気さんとのエピソードがなかなか始まらないね!自分でも書いていてびっくりです。彼との出会いまでにも、彼とのエピソードをお話するために欠かせない出来事がたくさんあったので、なかなか始まりません。本当にいつか始まるんだろうか!あとちょっとなはずなんだけど!

 

あとみんな!【わかりみの深い「完全自殺マニュアル」 - わたしはここにいるよ】でも話したけど、飛び降りても、死ねないからな!ハンパなく苦しむだけだから!だいたい中途半端に助かるだけだから!この手術の翌日からもかなり苦しんだから!次に更新する時に詳しく話すけど。そこまで追い詰められたら、なかなか「飛び降りない」って判断出来ないと思うけど、絶対に飛び降りんなよ!!!!!!

 

それでは今日のところは、このへんで。

また、この場所で会いましょう。

大丈夫。この他にも何回も自殺企図したけど、いつも死ねないから。

それでも生きてりゃ、なんとかなるから。

 

そんな、学習能力のない、ひたすら頭の悪いわたしは、ここにいるよ。

 

続きを更新しました。

【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

ぜひ、お時間の許す時にページをめくりに来てくださいね。平成の医療が起こした、たくさんの「奇跡」です。

 

葉月ひろな

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