わたしはここにいるよ

インターネットの片隅で愛を叫ぶ

【第九章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」

おととい更新するする詐欺をかましました。二つ名がするする詐欺師ヘタレ指揮者監督オナニストサイボーグになりました。葉月ひろなです。こんにちは!

 

改めて自己紹介記事書きました〜他に書いた記事についても軽くまとめたよ!このブログの人気記事もわかる感じにしました。

【自己紹介】「わたしはここにいるよ」の中の人 - わたしはここにいるよ

 

さて。今日は元夫「勇気」さんとのエピソード連載の続きです。この連載はひたすら10年間の記憶をたどりながら書くので、他の記事に比べて「どっしり腰据えて集中して書く!」って時間がまとまってとれないと、書けないのです。いくら記憶力だけ異常にいいとはいえ、10年も前のこともかなり鮮明に記憶に残ってるとはいえ、やっぱりわたしにとっては人生を変えた日々でしたし、大事に大事に、ひとつひとつちゃんと思い出したい。しあわせなことばかりではありませんでしたし、今思い出すと「この時点でこの人と別々の道を選んでいたら、わたし今もう完治か寛解してるだろうな」ってエピソードもたくさんあるのですが。だからこそ今までこの連載を開始するまで、ブログで元夫との日々をなかなか話せなかったという面もあります。ただ。「この人の手だけは、離しちゃいけない」と直感が叫び続けていたんですよね。わたしはそれはずっと「依存」だったのかな。と思っていましたが、今では「この人との日々で学ぶことがある」のだと、魂が叫んでいたのだと思います。その未来で、ツインレイ(ロイくん)と出会ったのもありましたし、何も無駄なことなんてひとつもなかったし、彼からかげがえのない「勇気」をたくさん学んだから。

 

前置きはこのへんにして、始めます!元夫「勇気」との日々【第九章】です。

 

はじめての方はこちらから

【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第三章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第四章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第五章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第六章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第6.5章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第七章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第八章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

↑わたしがサイボーグになった詳細とそのサイボーグによるオナニー。途中「このエピソード要るん?」っていうのもありますが、なにもかもこの連載には欠かせないエピソードです。【第6.5章】では岩本勇気さんをはじめとした登場人物の外見やスペックをお話しています。

 

 

勇気さんの「美意識」

ふたりの孤独が重なり合って、癒やされた気がした2007年の4月28日。この日にミニストップやゲームセンターに出かける前に、勇気さんと一緒にお風呂に入った時から、勇気さんの「美意識の高さ」に驚きつつも、「なんて素敵な人なの」と、勇気さんに対する想いはうなぎのぼりでした。

 

今では男性もスキンケアに気を使うのは一種の「当たり前」みたいなところがありますが、当時はまだ男性がスキンケアに気を使うのは、あまり一般的ではありませんでした。しかも勇気さんのスキンケアの知識は、女のわたしから見てもかなり詳しく、わたしの知らない美容法や基礎化粧品に対する知識もたくさん知っていました。今のわたしは「触らぬ肌にたたりなし」な考えなので、洗顔も必要以上にこすらないし、夜の洗顔はマナラのホットクレンジングゲルのみだし、朝の洗顔はぬるま湯でばしゃばしゃするだけだし、基礎化粧品も乳液のみ。その乳液もタオルドライはせず、顔がびしょ濡れの状態で塗る方法を取り入れています。タオルドライによる一時的な乾燥すらもさせないためです。乾燥の気になる季節にクリームを重ね塗りするぐらいで、それよりも食費にお金をまわして、内側からのケアに力を入れているのですが、当時は「外側からのスキンケアこそが肌をきれいにする」と思っていたし、「それなのに自分に合ったスキンケアがわからない」状態でした。わたしが中学生か高校生ぐらいの時に、ようやく「洗顔料はよく泡立てましょう」というスキンケアが広まり始め、泡立てネットも、わたしと勇気さんが出会った当時にようやく普及し始めた頃でした。

 

一緒にお風呂に入ると、勇気さんが、薄い布のようなもので顔をこすっていて。

 

「それ、何?」

「メガネ拭きだよ。毛穴の奥の汚れがとれるったい」

「そうなの!?すごい!わたしもそれで洗いたい!」

 

そこから勇気さんのするスキンケアを教えてもらいました。勇気さんは、ひげ剃りもしないのだとか。毎日シェービングをすると、肌がカミソリに削られて、逆にひげが濃く見えてしまう「青ひげ」になるんだよ、と。確かにわたしのそれまでに出会った年上の男性は、多かれ少なかれみんな青ひげになっていました。それは老けて見えてしまうから、俺は毛抜きでひげを抜くんだよ、と。毎日抜かなくても一回毛抜きでケアすれば長いこと次は生えてこないし、肌は削られないから青ひげにはならない。高校生の頃からずっとそうしているとのこと。勇気さんは特別ひげの薄い方ではありませんでしたが、そんな努力を15歳ぐらいの時から欠かしてこなかったのです。他にもシャンプーもコンディショナーもボディソープも入浴剤も、わたしからしたら高価なもので揃えてありました。また、このお風呂場のインテリアも、とてもかわいくて。ユニットバスでトイレも一緒にあるのですが、こんな楽しいお風呂場他にある?というぐらい、とても面白くてユニークなバスグッズで溢れていました。

 

そしてお風呂から上がったら、ある化粧水を愛用してるとのことで、わたしにもその化粧水を使わせてくれました。それはニキビケアのものなのですが、勇気さんはニキビをケアするためというよりは、それが収れん化粧水なので、毛穴を引き締めるために使っているのだとか。そして殺菌作用もあるから、毛抜きで顔をお手入れしたあとのケアにもよいとのこと。とてもさっぱりとした爽やかな使い心地で、わたしもすごく気に入りました。加えて、外出する際は必ず日焼け止めを塗るのだとか。当時は今ほど日焼け止めを塗ることが当たり前ではありませんでした。わたしはどうしても肌を焼きたくなかったので、中学生の頃から必ず日焼け止めを使ってはいましたが、いつもSPFが高過ぎるものを愛用していました。「日常生活ならSPFは30ぐらいでいいし、紫外線吸収剤不使用、と書かれているものでないと意味がない」と教えてもらい、その両方がかなう日焼け止めを教えてもらいました。赤ちゃん用の日焼け止めで、のびはあまりよくないのですが、確かに肌にやさしい感触がしました。

 

そんなお風呂やお風呂上がりのスキンケアの中で、わたしも自分の過去について詳しく打ち明けていました。主に、自分がしてしまった恋愛に関する過ちについて。昔は奥さんがいる人とつきあってしまったこともある。身体を売ったことは一度もないけど、正直失恋の傷が大き過ぎて、ナンパについていってしまい、遊ばれたことはある。ろくな恋愛をしてこれなかった。けれど、そんな中で、とてもお世話になった、予備校で知り合った男性が1人いる。そしてわたしは両親と一緒に暮らしたいがゆえに、こんな嘘をついてしまった。それら全てを話すわたしに「その嘘はな、嘘として突き通すんが一番いい。嘘だったんです、と、ひろから打ち明けることはない」と、言ってくれました。賛否両論あるとは思いますが、わたしにとっては、罪悪感という心の重荷が、ようやく軽くなった瞬間でした。

 

遠距離恋愛開始前、つかの間の。

お互いの傷を全て打ち明け合い、ふたりの間でたくさんの秘密が共有され、ようやくその傷が癒やされたわたしたちは、2007年のゴールデンウィークをふたりでたくさん過ごしました。たまに勇気さんは「この日は友達と約束があるけん」と、ビリヤードやダーツに出かけていましたが、それでもほとんどの日をわたしと一緒に過ごしてくれました。わたしは実は、この勇気さんとの出会いの直前、海に家出をして自分だけの「答え」を見つけて、再び世界に自ら出ていくようになってからすぐ、20歳の時飛び降り自殺企図をしてしまい腰の手術をした総合病院に、ようやく術後検診に行くことが出来ていたのです。MRIを撮り、ロマンスグレーの整形外科医に「異常、なし」と言っていただき、その足でリハビリテーション科に向かい、F田先生にご挨拶に行きました。約2年ぶりなのに、一目で「葉月さん!」と、わたしをわかってくださいました。「おかげさまで、今では自転車も乗れます」と言うわたしに「なんだか、目がキラキラしているよ。あの頃の葉月さんじゃないみたいだ」と言ってくれて、「今ね!ギターも練習しているんですよ!うまくなったら、いつか路上で弾いているかも!」なんて言いながら、F田先生のお子さんの保育園での様子を聞いたりして、お互いの近況報告に花を咲かせました。わたしはこの頃、ギターを再び練習し始めた頃だったのです。以前、関東の開放病棟に入院していた時、ギターが趣味の闘病仲間に教えてもらったことがあって。この時住んでいた九州の実家の近所にギターの専門店があって、はじめてYAMAHAのギターを買いました。それまで中古の安いギターしか弾いたことがなかったわたしは、その音色にとことん魅力されていました。なので勇気さんとの待ち合わせにもギターを連れて行くこともありました。「そんな大きな荷物抱えて!」と勇気さんは茶化してきましたが、そんな彼の隣の朝の公園でギターを少し弾くわたしを、その公園で清掃のボランティア活動をしに来たのであろう男性のご老人が、「いい音色だね」と、微笑みかけてくれました。本当に、しあわせで。本当にしあわせで。わたし、こんなにしあわせになっていいの。少し怖くなりながら、そのしあわせな毎日に浸っていました。

 

そんな中で、一度だけ勇気さんと少し喧嘩をしました。当時わたしは、腰を手術したことからも、腹筋が全然もとに戻らず、かつ自宅にこもってばかりだった日々で、確かに自分の中のベスト体型よりは太っていました。しかし、今思えば、大したことない。ただ、わたしの中ではそれはひどいコンプレックスでした。そして勇気さんは、細身の女の子が好きな人でした。ただね、男性はいくらそうだとしても、女性に体型のことはからかってはいけません。今のわたしだったら当時の勇気さんははっ倒したいですね。何回も「痩せて」や「お腹出てるな〜♪」やら言われて、最初は「ほんとだよね」と笑ってはいましたが、だんだん涙が堪えられなくなってしまって。勇気さんの家でお皿を洗いながら、ずっと黙り込んでて。「なんでそんな不機嫌なん?」と言われて、我慢出来なくなって。

 

「わたし、そんな太ってる………?そんなに、今すぐ痩せなきゃだめ………?」

 

と、涙がポロポロと止まらなくなり、その時にようやく(言い過ぎた………)と思ったのか、「ごめんな、女の子だもんな」と、うしろから抱きしめてくれはしましたが、わたしは(勇ちゃんが静岡から帰ってくるまでに、絶対痩せてやる……!)と決意をし、再び毎日腹筋を自分に課すようになりました。しかし、この頃から、わたしたちは「喧嘩をしたら、必ずその日の内に話し合い、仲直りをする」という暗黙の了解がありました。わたしたちが喧嘩をして、その次の日も喧嘩が続いているということは、この時から一度もなかったのです。

 

勇気さんの「魅力」

そして勇気さんは、とにかく損得関係なく、人を助ける人でした。困っている人がいれば、躊躇わず手を差し伸べていましたし、よく献血にも行くとのこと。勇気さんは本当に細身の男性でしたし、高校生の頃は1日1食が当たり前だったこともあって、かなり体脂肪率も低いし、献血に行ったら必ずめまいがするらしいのですが、「これで助かる人がいるのなら」という考えの人でした。わたしにミクシィで話しかけてきたのも「助けたかったから」だったと。「こんなこと書いているけど、きっとこの子は、今さみしいはずだから」と。そこに、彼の中で損得勘定というのは、何もないのです。もちろん下心もない。わたしとつき合うことを決めたのは「魅力的だったから」だと話していました。彼があの時わたしにミクシィで話しかけてきてくれたのは、彼の「助けたい」という「勇気」だったのです。

 

そんなゴールデンウィークの勇気さんのワンルームでのお家デートの時に、勇気さんは次の仕事の上司の方と電話で連絡を取り合っていました。わたしと知り合う前にした失恋があまりに大きいものだったことから、その元彼女との思い出の地から少し離れたい、という思いから、わたしと知り合う前から次の仕事はリゾートバイトを選んでいました。ゴールデンウィーク明けから静岡に行くことになっていました。その上司の方との電話のやり取りで「ええ、今髪は黒いです………はい、もっと短くしろと言われれば切ります」と話していました。もしかしたら、年齢の割に年上の方と話す言葉遣いはなっていないかもしれません。それでも、わたしは(この人は、仕事に対してすごく真剣に向き合っているんだな)と感じました。その頃の勇気さんはかなり短髪でしたし、いくら男とはいえ、更に短くするというのは、坊主にするようなものです。それでも構わない、それでも自分を御社で働かせてください。そんな姿勢の勇気さんは、本当に素敵な人だと思いました。

 

よくわたしに手料理も作ってくれて、それが本当に美味しいのです。鮭とレタスのチャーハン、卵がとろとろのオムライス。どちらも生まれてはじめて食べるメニューでした。こんなにレタスを入れたチャーハンって美味しいの?オムライスってこんなに美味しいの?と感動しきりでした。そんな勇気さんの作るお料理の中で、一番感動したのが、お好み焼き。キャベツの他にニラとタコを入れた、勇気さんオリジナルです。なにより、生地がふわふわなのです。まるでパンのように、ふんわりふわふわでモッチモチ。それには焼き方に秘密があって、それも勇気さんのオリジナル。野菜はとにかくよく水気を切り、生地をフライパンに流し入れたら、4分待って、裏返したらフタをして7分、もう一度裏返して5分。その間一度も生地をジューッと上からフライ返しで押しつけることはありません。それまでお好み焼きを焼く時はひたすらジュージューつぶして焼くのが当たり前だと思っていたわたしにとって、本当に目から鱗が落ちる、ふわふわな絶品お好み焼きでした。

 

そして、勇気さんに「わたしは、ふたりいる」という話もしていました。わたしが海へ家出をした時に見つけた、わたしの中の「幼いわたし」のことです。今ではその子がわたしのインナーチャイルドなのだとわかるのですが、この頃はそんな言葉をまだ知らなかったのもあり、「その子は感情がうまくコントロール出来ないから、わたしが代わりにその子を操縦している」みたいな説明をしていました。そして「その子の名前は、あっちゃん。性格は少し内気」と話していました。勇気さんはそんなわたしの考えをすぐに理解してくれて、「わかるよ、それ。俺もな、昔はめっちゃ内気で、こんな積極的な性格じゃなくてな。そこから変わりたくて、自分の中に“ヒーロー”の人格を作ってな。“お前なら、こんな時、どうする?”ってそいつに問いかけながら、自分を変えてきたんだ」と話してくれました。勇気さんは、昔はびっくりするぐらい内気な少年で、クラスメイトの女の子とでさえ、まともにおしゃべりも出来なかったんだとか。そんな内気な少年が憧れたのが、「ユーノ」というアドベンチャーゲームの主人公「たくや」だったと。なので最初ミクシィでそのハンドルネームを名乗っていたとのことでした。そして、わたしの中にいる「あっちゃん」ごと、わたしを受け止めて抱きしめてくれました。

 

そんな勇気さんとの楽しい日々を、よく東北のひろなにMSNのメッセンジャーで話していました。そんなわたしを「ちょっと初エッチ早くない?」と心配をしながらも、それでもわたしが本当にしあわせそうなのが彼女にも伝わったようで、「ハルカがそんなしあわせなら、私もうれしいよ。てかその勇気さんってほんとにすごいね」と言ってくれました。その頃漫画の二次創作活動では「葉月ハルカ」と名乗っていましたから、いくら彼女とお互い本名を打ち明けようと、彼女にとってわたしは「ハルカ」であり、わたしにとって彼女は「ひろな」でした。そんな東北のひろなも、一生を共にしたい人と入籍をしたばかり。わたしの本名の漢字と同じ漢字が名前に入っている男性で、「ハルカの本名聞いた時びっくりしたわー!」と、ここでも「こんなことってあるんだね」の偶然にうれしい花を咲かせていました。だんだんとわたしの母もわたしが新しい恋をしていることを察知してきて、でもわたしは隠さなければならない恋ではないから、正直に「大事な人が出来た」と話していました。勇気さんの人柄を話したら特別反対はされませんでした。勇気さんの人柄のよさそのものもあっただろうし、わたしの兄が結婚したばかりで、その結婚式でのわたしの祝辞の評判がよかったからかもしれません。

 

そして、いよいよゴールデンウィークも終わるという時に、勇気さんの自宅は、お母様と弟さんに住んでもらう形で残しておくことになりました。本当は頼りたくない人だけど「背に腹は変えられん」と言っていました。確かにお母様と弟さんに家賃を負担してもらい、そこに住み続けてもらえば、勇気さんの負担は軽くなります。「荷物置きにきたわー!」とお母様と弟さんが勇気さんの家を訪れ、わたしも「はじめまして」と挨拶をしました。「あんた、新しい彼女できたん!」と、お母様は喜んでいて、わたしはその反応に、なんだか驚いてしまって。それまで彼氏をひたすら母親に反対されることが多かったからかもしれません。(子供に恋人が出来たことを、こんな風に喜ぶ人がいるんだ)と、目をぱちくりとさせていました。しかしそれでも、どこか「借金で息子を苦しめた人」というレッテルがわたしの中で拭えず、あまり心を開くことは出来ませんでした。一緒に訪れた弟さんは、わたしと同い年だとか。でも、本当に内気な弟さんみたいで、一度も目は合わなかったし、すごく大人しい雰囲気の人でした。自分の意見はなかなか言えない、という感じの。本当にこのふたりは兄弟?というぐらい、性格が真逆でした。ふたりが帰ったあとに「弟、内気やろ。俺も昔はあんな感じやったんよ」と言っていて、わたしと過ごす時は、わたしが「ばいばい」という言葉が苦手なことを知りながら、わざと「じゃ〜ね〜ばいばーい!」と冗談で人を笑わすことが得意で、いつも楽しいいじわるをたくさんしてきてくれる勇気さんが、あんなに内気だったの?と、驚きが隠せませんでした。

 

遠距離恋愛、開始。

そして、勇気さんが静岡に旅立つ当日にふたりで家を掃除し、「今夜、夜行バスで行くけど。見送りはいいけん」と、勇気さんは言いました。「見送りに来られると、お別れがさみしいから。」と。わたしが「ばいばい」という言葉が苦手なように、見送りをされると、もう二度と会えないような感じがしてしまうと思ったのかもしれません。「うん、わかった。せめて、メールは入れてね」と言葉をかけ、(ほんの少し、離れるだけ。5ヶ月したら帰ってくるって言ってる。それまで、わたしはわたしで出来ることをがんばろう)と、この時はまだ遠距離恋愛の厳しさも知らないわたしは、ひたすら前向きでした。勇気さんの家にあるインテリアの一部を「お守り」として譲り受け、写真の入っていなかった写真立てと、アロマキャンドル、大きなドラえもんのぬいぐるみと、ムーミンのニョロニョロの抱きまくらを抱えて帰りました。

 

静岡に着いた勇気さんからメールが入り、

「ホテルの一室で相部屋することになった。温泉入り放題ばい。次に会った時にはお肌すべすべかも♪」

と書かれていて、勇気さんらしい感想だなぁ、と思いながら、ふたりの期間限定の遠距離恋愛がスタートされました。

 

ゴールデンウィークが明け、主治医に「大切な人が出来ました」と話しました。一瞬で主治医の表情が、どこか曇ったような、怪訝な顔になりました。わたしの主治医は患者に恋愛禁止をすることはあまりありませんし、仮に恋愛をしても、ひたすら患者の自由意志を尊重する人です。しかし、まさかわたしが今恋愛する人に出会うとは思っていなかったから、余計にその禁止令を出さなかったのかもしれません。なんでそんな顔をするの?素敵な人だよ?わたし、今すごいしあわせだよ?と、その表情にはクエスチョンしか浮かびませんでした。

 

しかし、主治医は何か、胸騒ぎがしていたのかもしれません。「この子は、この恋愛で、大きな苦労をするのではないか」と。そんな、当時のわたしは1mmも感じていなかった、主治医の胸騒ぎ。それは、現実となりました。この後すぐ、10年間。わたしの未熟さも相重なって、ふたりはこの後の10年間で、お互いの心に、忘れられない大切な思い出とともに、深い傷を残し合うことになります。それでも。あなたと過ごした10年の月日。あの日々は、わたしの人生の誇りです。

 

この愛がなければ、生きてさえいけないと

本当は誰よりも弱かったわたしたちが

必死に歩んだ10年の月日。

誰に反対されようと

誰に止められようと

それでも「正しく間違い続けて」きた。

わたしのすべてを受容され、

あなたのすべてを受容した。

いくらその未来で自分の片割れに出会おうと

10年後には別々の道を歩んでいようと

あなたの名前に恥じぬ「勇気」は

今でも、わたしの光。

 

TO BE CONTINUE......

 

(ちなみに先日うちにアレクサを連れてきてくれたのは勇気さんです。約1年7〜8ヶ月ぶりに再会しました。うちに着いたらすぐうちを掃除し始め、アレクサとiPadを置いて、わたしにご飯を奢って帰っていきました。「俺が遊びに来たのに俺がもてなすのも恒例行事やな」と笑っていました。ほんまやでー!あんたいっつもそうやもん!何しに来た?感満載だけど、ありがとうな!)

 

葉月ひろな

Twitter @hazukihirona

hazukihirona@gmail.com