わたしはここにいるよ

インターネットの片隅で愛を叫ぶ

【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」

はじめての方はこちらから

【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

 

手術後の翌朝。

朝になって目が覚めたら、周りにたくさんいたはずの看護師さんが普段の朝の人数になっていて、朝食が運ばれてきました。たぶん、なんとなく、わたし、無事だったんだ。「今夜が峠です」だなんて、一言も言われなかったけど。たぶん、そんな感じだったんだ。目の前の、いつもとあまり変わらない、それでも栄養バランスの整った、病院の朝食。お腹、めっちゃ空いてる。昨日の朝から何も食べていない。本当は、スタバのキャラメルフラペチーノが飲みたかったんだけど。とにかくお腹が空いている。看護師さんに、わかめの酢の物と、ピーマンの炒めものを食べさせてもらいました。途端に吐いてしまいました。嘔吐が止まりません。胃袋が裏表ひっくり返りそうです。なんで?あんなに食べたかったのに。あんなにお腹空いていたのに。こんな激しい吐き気、生まれてはじめてだ。キャラメルフラペチーノとか言ってる場合じゃない。そんなの食べれない。そんなの欲しくない。胃の中のもの全てを吐き尽くして、術後で体力が奪われていることからも、ぐったりとしていました。あまりに長時間の全身麻酔の翌日には、こんなことがよくあるそうです。看護師さんは、わたしが吐く時に備えた、銀色のお皿を用意していました。

 

あり得ないぐらいの、痛み。

それからも痛みがますますと増していきました。腰の金属ボルト6本を埋めた部分が痛いのだろうけど、もうどこが痛いのかもわからない。背骨に刃物のような異物が突き刺さっている感じなんだ。骨に刃物が突き刺さってる。あり得ない。耐えられない。思わず叫んでしまうこともありました。そんなわたしを、母は冷たい眼差しで見つめていました。お母さん。そんな目で見ないでよ。わたしが悪いのはわかっているよ。お父さんも、呆れているのはわかっているよ。ただ、お母さん。あなただけは、わたしの味方でいてほしいよ。お父さんの否定の数々は、あまりに理論的すぎて、あまりに合理的すぎて、そこに「愛」がないんだよ。でも、お母さん。あなたは、その理論主義も合理主義も、本当は苦手でしょ?同じ女だから、わかるよ。だから。お母さんだけは、わたしの味方でいてよ。

 

あの人に連絡をしないと。

そんな母の冷たい眼差しを感じながらも、わたしは母がお見舞いに来てくれるのを、楽しみにしていました。でも、いつ来てくれるのかは、いつもわからない。当時スマホはまだなく、ガラケーだった携帯電話は取り上げられていました。その病棟が携帯の使用を禁止していたからではなく「あなたは精神疾患を患っているから」という理由で、母に取り上げられていました。なんで?別にわたし、携帯電話でネットはしないよ。メール機能と電話機能しか使っていないよ。自分の稼いだお金で払っているし、携帯代節約したいから、インターネットは一切していないよ。携帯電話を持ち始めた15歳の頃から、携帯代を両親に払ってもらったことは一度もないし、わたし今寝たきりだから、公衆電話まで行けないんだよ。今つきあっている男性とも、連絡がずっと取れていない。彼は関東に住んでいる。その男性とどんな結末になるかは、わかっているよ。ただ、一言連絡を入れたいよ。「わたしは、ここにいます」って。

 

その後、術後しばらくしてから、なんとか上半身だけは起き上がることが出来るようになり、それでも必ず背もたれは必要で、毎回大勢で、大がかりに、起き上がっていました。久しぶりに目線が高くなりました。ようやく、今つきあっている男性に手紙が書ける。事情を説明し、ここにいます、と手紙を書きました。看護師さんに頼んで、その手紙を出してもらいました。その男性とは関東で大学中退後に働いてる職場で出会いました。わたしより8歳年上の28歳で、その職場のリーダーのような人でした。彼からの熱烈なアプローチでつきあい始めました。病気のことも打ち明けていました。その上で、プロポーズされていました。「来年になったら、結婚しよう」と。結婚式の内容も話し合っていました。わたしもそうですが、彼は青春時代に安室ちゃんが全盛期の世代なので、安室奈美恵さんのCAN YOU CELEBRATE?を流したいと。そのBGMにのせて、わたしをお姫様だっこしたいから、ドレスはマーメイドドレスを着てほしいと。

 

そんなのもう無理ってわかっているけど。腰が砕けたからとかの理由ではなく。そもそもわたし、「予備校の彼」以上に、あなたのこと愛せていないけど。「予備校の彼」のこと、こんなに忘れられていないけど。でも、あなたとの毎日も楽しかった。そこに偽りはない。別れがくるのはわかっている。でも、最後に、関東のわたしの一人暮らししている、あのアパートの庭に一緒に埋めた、チューリップの球根。そろそろ、咲くと思う。そのチューリップの花が咲くのを、一緒に見たいよ。

 

その男性は、仕事の休みをとって、九州の総合病院までお見舞いに来てくれました。あまりに変わり果てた姿のわたし。なんとか起き上がることは出来るようになったけど、未だに尿管のパイプは繋がっている。ベッドの脇にはわたしの尿が溜まる袋がついている。それを見て彼は「……………汚ぇ」と言いました。何を話したかは、あまり覚えていません。ひたすら、汚ぇ、臭ぇ、と言っていました。その晩に、わたしの両親と食事をしたらしく、結婚を考えていることも話したそうですが、その席で、わたしの両親とその男性は「自分で飛び降りるなんて、何考えてんだか」と、笑っていたそうです。母からそう言われました。昨日、私達、あなたのこと、笑っていたの。って。

 

その男性との別れを決意し、その数日後に、関東に帰ったその男性から手紙が届き「今回のことは、あり得ないから、別れよう」と書かれていました。わたしがあり得ないことをしたのはわかっているよ。わたしの身体が悲鳴上げているもん。でも、それなら、なんで九州までわざわざお見舞いに来たの?わたしに、汚ぇ、臭ぇ、って言いに来たの?往復の飛行機代バカにならないはずでしょ?そんなお金をかけてまで、そんな言葉を言いに、わざわざ来たの?そして、わたしの両親と、わたしとの結婚を考えていることを話した上で、わたしの居ないところで、わたしのことを、笑っていたの?

 

その男性は、お料理が本当に上手で。わたしはまだ、料理があまり得意ではなくて。カレーしか作れない。小学生の頃から、子育ての落ち着いてきた母が、昼間パートに出るようになってから、よくわたしが、日曜日の父と兄のお昼ご飯を作っていました。だいたいカレーなんだけどさ。小学4年生の頃から、何回も作ってきたから、一応自信ある。「予備校の彼」にも、受験が終わったあとに、彼のアパートで作ってあげたら「お前、天才!」って言っていた。そういえば、あの時、はじめて「お前」って言ってくれたな。「お前」なんて、一昔前の夫婦の古臭い言葉かもしれない。亭主関白かよ、って。でも。そんな関白宣言、わたしは嫌いじゃないよ。って当時そんなことを思って「予備校の彼」を思い出したのは、ここではどうでもよくて。カレーしかまともに作れないのに、わたしのアパートに当時つきあっていたこの28歳の男性が訪れた時には、見栄をはって、はじめてのレシピに挑戦していました。まともにちゃんと作ったことのない、ハンバーグとか、麻婆豆腐とか。当時のわたしにはまだ難しすぎて、「ハンバーグ焼くなら、ソースに肉汁を使うといいよー」とか言い出す彼の言っている意味が、ちっともわからなくて。毎回料理は悲惨な結果。そんなわたしを見兼ねて、彼が作り直してくれる。え!?わたしの買ってきたあの材料で、これ作ったの!?すっごい、ご馳走!しかも、品数もすごい!どうやったの?どうやったの??そんな風に喜ぶわたしを、ニヤニヤと、いじわるそうな顔で見ていました。彼は情報処理の専門学校に行くか、料理の専門学校に行くかで進路を悩んだぐらい、料理が好きで上手な人でした。ただ、カレーに毎回ソースをかけて食べるのにだけは、なんだか納得がいかない。ちょっと拗ねているわたしを、やさしく抱きしめてくれる。そんな人だった、はずでした。

 

リハビリの開始、F田先生との出会い。

その後、入院をしたままその男性とお別れをし、傷口の塞がったわたしは、骨移植をする際に臀部から骨を一部とった箇所の肌の「触覚」が失われていることに気がつきました。お尻のその傷の上を触っても、触ってる感覚が、臀部からしない。整形外科の研修医は「いずれ、戻るから」と話していましたが、約10年間は戻りませんでした。今でも、その箇所の触覚だけは、ぼやけています。そして、自分の五感のひとつが失われつつも傷口が塞がったわたしは、リハビリの許可が出ました。わたしの腰には、手術の直後から、医療用のコルセットがついています。脇の下から、臀部までありました。わたしだけのために、わたしだけのサイズで作られた、サイボーグみたいな白いコルセットです。上半身のほとんどをコルセットが締めています。少なくとも1年間は外せないと言われました。その状態で、まずはベッドの上で腹筋をつけるところから始まりました。リハビリテーション科は、わたしのいる精神科病棟とは違う階にあります。しかもわたしは閉鎖病棟の患者なので、「必要」と判断されて、特別な許可が出るまで、そのリハビリテーション室に行くことは許されません。

 

F田先生という、若い男性のリハビリテーション科の先生が、わたしを担当することになりました。別れた男性と同じ、28歳でした。同じ、関東の出身でした。当時のわたしにとっては、唯一自分と同じ標準語を話してくれる人でした。結婚されていて、お子さんが生まれたばかりとのこと。F田先生に教えてもらったその子の名前は、とてもかわいい名前の、女の子でした。新幹線を使って通勤しているとのこと。その遠い隣の街は、新幹線を使えば10分の距離なのだとか。毎朝新幹線に乗っているから、新幹線のアナウンス全部覚えちゃったよ!と、F田先生はキラキラとする瞳で話してくれました。それに笑顔で受け応えをするわたしを、「この子、本当に、閉鎖病棟への入院が必要な患者なのだろうか」と最初から思った、と、F田先生は話しました。「いや、わたし、そこまで重症なうつ病患者ではないと思うんですが。今までも入院はしたことあっても、開放病棟だったので。ただ、今回は、自分で飛び降りちゃったから……」と、話すわたしを、「そっか………」と、何も責めることなく、肯定することもなく、それ以上は深くは訊いてきませんでした。ありがたいですね。本当に、あの総合病院では、ありがたい、としか言いようがない、整形外科のロマンスグレーの担当医と、リハビリテーション科の若い先生にお世話になりました。精神科病棟の担当医のことは、あまり記憶にありません。患者から「大名行列」と呼ばれていた、精神科の医師と複数の研修医全員での、全病室を周りながら、患者1人に対しておよそ5分間の会話をする診察しか、記憶にありません。その大名行列、何の意味もないでしょ。すっごい威圧的。しかも、同じ患者だからって、他の患者さんがいる中で、自分のことさらけ出せる人、いるわけないじゃん。毎回そう思っていました。おかげで、精神科の担当医の顔は、ほとんど記憶にないです。なんか、後ろ姿が、まるで疫病神みたいなシルエットの人だった。

 

20歳の身体は「ご老体」

そんな、精神科病棟では、なんとなく居心地の悪さを感じていたわたしにとって、リハビリテーション科のF田先生は、たった1人の理解者のような人でした。整形外科のロマンスグレーの担当医は、術後はあまり接点がなかったので。もちろん恋愛感情は抱きません。ただ、この人みたいな旦那さんを持つ奥さんは、きっと素敵な人なんだろうなと思いました。F田先生は、わたしのことを「20歳のご老体!」って呼ぶことがありました。術前術後と3ヶ月も寝たきりになると、本当に身体はなまる。筋肉もかなり落ちていました。わたしはもともと、筋トレは結構してきていて、特に腹筋には自信がありました。中学生の頃から、毎朝学校に行く前に腹筋をしていたのです。それは、当時途中入部をした女子バスケットボール部で、みんなについていきたいから始めた習慣でした。よく家の周りも走っていました。よくウォーキングもしていました。途中から、その目的は、思春期の女の子誰もが通る、痩せたいから、になってしまっていたし、わたしは運動神経自体はあまりよくなかったので、ひたすらバスケットボール部にはついていけなかったけど。片手でボールをゴールに入れるレイアップは出来るようになったけと、ドリブルの苦手だったわたしは、ゴールから遠く離れた場所からスリーポイントシュートをよく狙うようになって、その練習のし過ぎで途中で肩を壊して、マネージャーみたいになっちゃったけど。ただ、腹筋には自信がありました。一時期流行ったヘソ出しルックだってよく着ていた。ウエストはいつも引き締まっているのが、わたしの中では当たり前でした。

 

その腹筋も、全然ない。手術の際に腰の筋肉をメスで切ったから、も、あるかもしれない。足の筋肉もかなり落ちているんだろう。未だに術後の医療用着圧タイツ脱げないから、よくわかんないけど。そんな、3ヶ月寝たきりによって筋肉が落ちまくった体力のないわたしを、F田先生は「ご老体!俺より若いのに、ご老体!」って茶化してくれました。「葉月さーん!ご老体ー!リハビリの時間だぞー!」って、閉鎖病棟のわたしの病室を訪れてくれました。この頃から、再びうつ病の症状が出始めたわたしには、きついなぁ…………と思う日もありましたが、閉鎖病棟独特の雰囲気の中で、F田先生は笑顔を絶やすことはありませんでした。「葉月さん、なんか最近ちょっと元気ないね?」と話すF田先生に「うん………ちょっと、うつ、きつい」と話していました。そんなわたしに、ベッドの上で出来る、かつ腰を痛めないようにする腹筋のリハビリを施してくれました。こんなんで本当に腹筋つくの?と思うぐらいの、簡単な動き。でも、肩を壊した中学時代にしたリハビリも、かなり簡単な動きだった。きっと、これで筋肉はつく。そう信じることが出来ました。完璧にはもとに戻らないけど、だんだん、足の筋肉をつけるリハビリにも移り、ベッドの上で、F田先生の腕の力に対抗する形で、足を動かしていました。そして数週間経ち、閉鎖病棟の廊下を、歩行器につかまりながら歩く許可が出ました。ヨロヨロとしながら。久しぶりに、歩いた。よかった。歩ける。腰がめっちゃグラグラするし、金属ボルト6本で支えているとはいえ、身体の要である腰が安定していないせいで、上半身と下半身が別人みたいだけど、歩行器につかまればなんとか歩ける。それでも、長い時間は歩けませんでした。最初は5分とかが精一杯です。腰が痛すぎるから。だから、移動の際は、ほとんどが車椅子です。だけど、1ヶ月ほど廊下でリハビリをして、短い時間でもなんとか歩けるようになったわたしは「退院する前に、階段の登り降りを練習したい」と申し出ました。日常生活に戻ったら、そんな動きは避けられない。その練習をしないうちに、退院をするのは不安。そう申し出たわたしに、F田先生は、閉鎖病棟からリハビリテーション室までの移動の許可を取り合ってくれました。前例がないそうです。F田先生は(どうする………?)みたいな看護師さんや研修医を説得して、僕が必ず葉月さんに付き添いますからと、リハビリテーション室への移動の許可をお願いしてくれました。

 

4ヶ月ぶりの、閉鎖病棟の外。

なんとか許可が出て、同意書のような、誓約書のようなものに署名捺印をしました。そうして訪れたリハビリテーション室は、閉鎖病棟と違い、明るい感じがしました。照明そのものが違うような。そこで、F田先生は自転車をこがせてくれました。よくジムとかにあるような、床に固定されたタイプの自転車です。全然こげない。いや、めっちゃこいでるんだって。これがわたしの最速なんだって。こげてるよね?わたし、めっちゃこいでるもん。そんな必死に自転車をこぐわたしを、F田先生は「ご老体ー♪」って、また茶化してきます。身体に鞭打ってがんばっているご老体に失礼でしょ。と思いながら、必死に自転車をこぎます。「がんばれー♪ご老体ー♪」しつこい!わかってる!むしろ敬え!お前より年下だけど、お前より身体の衰えは上だ!そう思いながら必死にこぐ自転車。思えば、4ヶ月ぶりぐらいに、全力で身体を動かしました。久しぶりにかく汗。運動するって、こんな感じだった。筋トレは好きなのに、昔から息の上がる運動は苦手で。でも、運動するって、こんな感じだったな。

 

あと、一歩間違ったら。

そんなリハビリテーション室で、目的だった階段の登り降りの練習をしました。リハビリテーション室にある階段は、あまり段数の多い階段ではないので、不安は残りますが、なんとか数段の階段も登り降りは出来ました。そんな練習をしているわたしの横で、F田先生が車椅子に乗って、階段の横にあった小さな段差を車椅子に乗ったまま乗り越える動きをしていました。ヒョイ、ヒョイ、と、車椅子の片方の車輪の部分だけで、次々段差を乗り越えて、前に進んでいきます。「すごい!そんなことって出来るんですね!」と驚くわたしに、「車椅子の生活になった患者さんには、こういう動きも教えなきゃならないんだ。どこもかしこもバリアフリーなわけじゃないし、日常生活のほとんどが障害だらけになる。その上で、生きていくための術を教えるのも、僕たちリハビリテーション科の仕事なんだよ」と話していました。そっか。わたし、あとちょっとで、そんな車椅子生活になっていたんだ。F田先生は、ヒョイっ、ヒョイっ、っと色んな段差を乗り越える動きを見せてくれました。わたしに、それが習得出来ただろうか。簡単そうに乗り越えているけど、めちゃくちゃ身体中の筋肉使うはず。わたしに、そんな生活を乗り越える、力と根性は、あっただろうか。本当に、馬鹿なことをしたんだ。でも。建物から飛び降りるほどの衝動に駆られた時。人は、その未来を、想像出来るのだろうか。経験した立場からいうと、それは、否だ。どう考えても、どう思い出しても。それは、否だ。

 

飛び降りた、理由なんて。

そんなわたしに、精神科のインターンに来ていた、若い研修医がついていました。おそらく、精神医学については、まだ知識の浅いだろう研修医です。それなのに、頭でっかちな考えしか出来ない研修医でした。飛び降りをしたわたしに「人は飛び降りようと思うほどの覚悟があるのなら、なんだって出来るはずだ」と言いました。きっと、飛び降りを実際に行動に移す前に、という意味なのでしょう。お前本当に精神科の研修医?と思いました。わたしの小・中学生の同級生に、数年後同じように研修医になった友人がいましたので、その友人が研修医になった時に「自分がつきたいと思う専門科の他も、研修医として経験しなければ、つきたい科の専門医にはなれないんだ」と話していましたので、その未来で研修医の現実を知ったのですが、当時のわたしには「お前いっぺん勉強し直してこい」としか、わたしについていた研修医に対しては思えませんでした。「飛び降りようと思ったら、なんだって出来る。そんな人間ばかりじゃないんです。そんな一見当たり前のような、精神状態の人間ばかりじゃないんです。少なくとも、うつ病は、そんな簡単な病じゃない。そんな世間一般の常識だけではかれるような、病じゃない。」そう言うわたしに、研修医は、何て言葉を返したらいいか。俺にはわかんねぇ。そんな顔をしていました。

 

普通なら、この研修医のように、わたしに言いたくなるでしょう。両親だってそうです。世界中のほとんどの人が、わたしにこう言いたくなるでしょう。わたしだって馬鹿なことしたのはわかっている。でも。あの夜の精神状態を、あの時のわたしの、家族の顔も友人の顔も恋人の顔も、一切浮かばず、暗闇を空飛ぶ勢いで飛び降りた際の、わたしの精神状態。誰かに説明する気にもなれない。誰かに説明しようとも思わない。わたしにだってわからないんだ。突発的に行動に移したわたしの脳みその中身なんて、わたしにも、わからないんだ。どこに帰っても、帰った気持ちになれない。実家に帰っても、帰ってきた気持ちになれない。7歳年上の兄の家庭内暴力がひどかった幼い頃から、どこに帰っていいかわからない。わたしがうつ病を診断された15歳の時から、ひたすら否定ばかりされる、そんな家しかない。わたしが悪いんだ、って納得するしかない。野宿?野宿はあまりしたくない。両親の言っていることにも間違いは感じられない。なんとなく、おかしいな、っていう違和感はあるけど、ほとんどの家庭って、そうでしょ?うちだけが特別じゃないでしょ。みんな何かしら否定はされるでしょ。将来を期待してた子供がうつ病になんかなったら、腫れ物みたいに扱うのが当たり前じゃん。それを責める気もないよ。なんとなく胸はモヤモヤするけど。なんで暴力をふりまくってた兄は、ちゃんと大学院まで卒業して、しかも主席で卒業して、中小企業であってもちゃんと就職して、昔は「お兄ちゃんみたいになっちゃだめよ」って、お母さんはそう言っていたのに、兄の暴力がある度に「あんたが泣くんじゃないわよ!」って何故かわたしが怒られたのに、その兄の暴力が原因で、お母さんはわたしの目の前で自殺をしようとしたのに、それを「まだひろなが居るだろう!」ってお父さんは止めたのに、兄はまっとうな人生の道に戻れて、わたしがひたすらまっとうな道から外れていってて、どこに帰ったらいいのか、「自分の家なんだから、胸はって帰りなさい」って言う遠く離れたおばあちゃんの言葉に涙するしかなくて、どこに胸はって帰ればいいのか、ずっとわからないわたし。そういえば、5歳くらいの時に、宇宙空間をまだ知らないのに、その空間を思い出しては「帰りたいな」って感情に見舞われては、涙を流したり、過呼吸になったりしていたな。だから飛び降りたわけじゃないけど。自宅が療養の場にならず、実家も落ち着かず、そうして入院をしたあの病院でさえ「よそ者」って見られて。療養になんてならなくて。病院の中もひたすら薄暗かった。あたたかな食事、あたたかな笑顔、ただいまって言えば、おかえりって返ってくる、そんな家を誰もが持っているわけじゃないから、時には頼らざるを得ない入院病棟。あれ?わたしなんであの病院に入院してたんだろう?お母さんがまた「この子の面倒、私はみれません」って言ったのかな。まぁいいや。気持ちはわかるし。わたしが入院すれば、丸くおさまるし。わたしの居場所は病院だし。病院はわたしの居場所だし。それなのに。なんか、意味わかんなくなっちゃったんた。あの時は、本当に、間違っていたのはわかっているけど、そうするしか、なかったんだ。

 

F田先生の出した「勇気」

そんなわたしの、閉鎖病棟での研修医とのやり取りは、F田先生は知らないはずです。最近ちょっと、うつがきつい時がある、という話はしていたと思います。ある日、またリハビリの日が来ました。F田先生が「行くぞ!」と、リハビリテーション室に付き添ってくれました。でも、なぜか、リハビリテーション室には行かない。え?さっき通り過ぎなかった?他にもリハビリテーション室あるのかな。そう思いながら、F田先生のあとを追いました。この頃のわたしには、ようやく歩行器も必要なくなり、それでも、大きなコルセットを巻き付けている上半身と下半身はまだ一体化していなくて、グラグラするんだけど、必死にF田先生のあとを追いました。なぜか、F田先生は一言も話さないのです。なんで?なんかあった?てか、どこに行くの?ん?室内プール。いやでも、水ははっていないし、長年使われていない感じ。そもそもここ、病院のどのあたりなの?結構長いこと歩いてきたよ。何回も階段も通ってきた。わたし、あんなに階段降りれた。かなり薄暗いし。電気さえ点いていない。え?そっち?なんか体育倉庫みたいだけど。あ、扉を開けた。

 

陽の光が、一気に目の前に飛び込んできました。

それまで、いつもガラス越しにしか感じられなかった、太陽の光。

いつも、いつまでも感じられなかった、病室の窓から見える、海から吹く潮風。

 

「外だ………」病室の窓から見えていた海と同じような、海から流れている川の橋の上に出ました。振り向いたら、わたしの病室からは、ここは見えないようでした。病室から見えていた景色とも違うし。精神科病棟とは反対側に来たのでしょう。

 

「退院前に、外で歩く練習しなくちゃな!」

 

ようやくわたしの方を振り向いて、そう言ったF田先生は、いつもみたいに笑っていました。きっと、見つかったら、ひどいお叱りを、彼は受けるはずなのに。何か罰を受けるかもしれないのに。彼は、あまりに久しぶりの太陽の陽の中で、笑っていました。先生。こんな患者のために、そんな危険な橋渡らないでよ。ありがとう。本当に、ありがとう。

 

5ヶ月以上ぶりの外を、潮風を感じて2人で歩きながら、F田先生は「やっぱり葉月さんは、閉鎖病棟に入院する必要は感じられない」と話していました。今回の事情がどうあれ、そんなに重症な患者には、僕には見えない、と。「わたしもそう思うけど、わかんないです。実際に自分が、どんな患者なのか。18の時かな。関東の開放病棟に、廃人みたいに入院してて。でも家族は、休めて羨ましいって言ってて。そんな廃人の頭で、20歳までに治すんだ、って思ってた」そんなことを言いながら、わたしは笑っていました。F田先生は、少し、さみしそうな顔をしていた気がします。その表情の理由なんて、わからないよ。わたしはかわいそうな人ではない。かわいそう、って自分で思ったら、きっとそれが本当になっちゃうから。わたしは、いつもわたしのことはうまく操縦が出来ない。でも、自らかわいそうな人には、なりたくないんだ。こんなことしておいて、説得力ないけどさ。でも。なんか今回、助かっちゃったから。その腰を治すことにだけ集中してたら、なんか楽になって。今、ここにいるから。そんな自分の気持ちは一切打ち明けず、長い橋の上に差し掛かって、その真ん中に来た時に「じゃーん!」とF田先生が、デジタルカメラを白衣のポケットから取り出しました。「写真撮るんですか!?わたしの!?」「最近、娘の写真撮ることで写真の良さに気づいてさ。1枚、撮らせてよ」「えー………わたし今すっぴんなのに……」「いいからいいから」

 

はい、チーズ!

 

たくさんの太陽の光の中で、潮風に吹かれながら、そうシャッターが切られた、デジタルカメラの背面液晶に、わたしの、どこにも売っていない、わたしだけの特注の、頑丈な医療用コルセットに支えられた、不器用な笑顔が写っていました。笑い方なんて、わからないよ。わたしはうまく、笑えてますか?「やばい、変な顔!まゆ毛もボサボサ!だって毛抜きもカミソリも持ち込み禁止なんだもん!髪もボサボサ!わたし前髪ないと生きていけないのに!ここ、風強いよ!わたし、この写真、いらないです!」

 

そんな潮風の中の、どこかさみそうな笑顔のF田先生との、わたしは、本当はこの外にはまだ居てはいけないはずの、それまでのリハビリで一番楽しい、それまでのリハビリで一番まぶしい、誰にも言ってはいけない、2人だけの秘密の、たった1回の、F田先生の出した「勇気」から導かれた、その時のわたしにとっては「奇跡」でしかない、低い天井ではなく高い青空のもとでの、最後のリハビリテーションでした。

f:id:hazukihirona:20190505051958j:image

そうして、全てのリハビリを終えて、わたしの手術を担当した整形外科のロマンスグレーの担当医が病室を訪れ、「はい、卒業証書。」と、整形外科医による退院許可証がわたしに渡されました。「本当に、お世話になりました」今度はちゃんと頭を下げながらそう言うわたしに「半年後な」と、ロマンスグレーの医師は返しました。半年後に、もう一度MRIを撮ります。レントゲンより更に細部まで見るためです。そして異常が見られなければ、その後の検診は、1年後。その先は、わかりません。必要に迫られたら来るのだろうけど。そしてわたしは、「先生、あの…………わたし、ハイヒール、履けますか?」と、訊きました。そんなん履かなくてもいいでしょ?いやいや、当時の20歳のわたしにとっては、その先の人生におけるおしゃれを楽しむ上で、重要なことでした。「勝負の日だけに、しなさい。」ロマンスグレーの医師は、ウインクをしながら、そう答えました。「…………はい。」とても、心から納得の出来る、合理主義・現実主義の父からは、一度も得られなかった、「愛」の込められた、わたしだけへ向けた、わたしだけの「答え」でした。飛び降りた際のハンパない痛みと、術後の痛みを乗り越え、たくさんの人の力を借りながら、わたしは、約100万円をかけ、腰に爆弾を埋めました。3割負担だから、本当は3000万円ぐらいするのかな。わたし計算苦手だから、わからない。そんな多額の当時の先進医療で、腰に爆弾を埋めました。いつ爆発するかわからない。いつ、この腰が言うことをきかなくなるか、わからない。それでも。わたしは、コルセットに上半身を支えられたまま、まだ、胸はちゃんとはることが、物理的に出来ないけど。歩きながら、初めて来た病院の1階の売店に売られていた九州の名物のひとつ「いきなり団子」を(めっちゃ美味しい……)と感じながら、そんな生きているからこその感情と喜びを抱きしめながら、その総合病院を、卒業しました。

 

義務教育の中学卒業以来、はじめて、自分の力で、たくさん周りの力を借りながら出来た「卒業」でした。卒業アルバムは、たった一人で、あのとても空が高かった、この九州では何故か一度も感じられなかった、目がくらむほどの晴れた日に、不器用な笑顔で写る、F田先生のデジタルカメラの写真です。あまりに不細工だったから、もらってこなかった!

 

その卒業の門をくぐる前に、閉鎖病棟をあとにする前に、当時のわたしにとっては厳しい言葉をかけた勉強の足らない精神科の研修医の白衣の胸ポケットに、そいつの真正面から、「ラブレターだよ!先生!」って、手紙突っ込んどいた。えっ?みたいな顔してた。そのラブレターに「うつ病についてもっと勉強してこい。わたしはその間に、この病を治す!」って書いていた。なんて生意気な20歳の女。そいつ勉強し終わったかな?わたし、その14年後に令和の時代が始まっても、まだ完全に治ってない!

 

この、およそ半年の間に、わたしの周りに次々と、たくさん訪れてくれた、医師たちと、看護師さんたちと、リハビリの先生と、わたしには厳しかった研修医。そんな当時の先進医療に携わってくれた、たくさんの恩人。誰もが今世会うことを約束してきた「ソウルメイト」だったのだと気がつくのは、その14年後のことです。それによる「学び」の意味は、まだわからないけれど。何故、わたしがあの時助かったのか。なんであんなに何回も「奇跡」が起きたのが。なぜあんなにも、会ったばかりの、あまりに馬鹿なわたしにたくさんの「愛」をくれたのか。その意味と理由なんて、34歳になっても、まだわからないけれど。

 

とりあえず今回はここまで。

いかん!また勇気さんとのエピソードが始まりませんでした!でもこの飛び降りからの腰に爆弾を埋めたエピソードも、勇気さんとの日々には欠かせない事柄で。この約12年後に腰が悲鳴を上げるんだけど、その痛みをとるエピソードが勇気さんと…………え?わたし何年後の話をしようとしているの?いやだって勇気さんとは10年間も一緒にいたし、このF田先生とのカメラエピソードも、そのF田先生の住んでいた隣の街も、結婚の約束を交わしながら別れた男性のお料理が上手だった話も、何もかもが勇気さんとの日々を話す上では欠かせなくて…………わたし一体この話を何章仕立てにしようとしているんですかね!100章ぐらい?それわたし書けんの?それ誰か読んでくれんの?ツインレイだと思っているロイくんとのエピソードはまぁまぁの文字数とはいえ【前前前世からずっと。来来来世までもいつまでも。 - わたしはここにいるよ】で1回にまとめられたのに!今までソウルメイトとの恋愛は【【前編】予備校の彼。あなたのこと、忘れません。 - わたしはここにいるよ】【【後編】予備校の彼。あなたのこと、忘れません。 - わたしはここにいるよ】って最大2章仕立てで語れたのに!今読み返すともっと書きたい予備校の彼とのエピソードはあったけど!

 

それだけ勇気さんとの日々が、わたしの誇りなんだってことで。まぁ、ロイくんとは数ヶ月しか一緒にいなかったしね。予備校の彼とも2年にも満たない日々だったしね。勇気さんとの日々は10年間だから、そりゃ文字数にも変化はあるよね。未だに出会ってもないけど!今回第2章なのに、未だに勇気さん本人が登場しないけど!

 

がんばって、これからはちょっとエピソードをはしょりつつ、更新を続けたいと思います。ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。お前ら、絶っっっっっ対に飛び降りんなよ!飛び降りたい気持ちを抑えるのなかなか出来ないけど、とりあえず、空飛ぶ勢いで飛び降りたわたしは腰が爆発してかつ100万(3000万?)かけて爆弾埋めながら、今も生きてるから。これ「奇跡」だから。飛び降りなんか死なない。が、わたしの持論だけど、とりあえず今のわたしは「奇跡」の塊だから。今も歩けること、今となっては走り回れること、背骨をたくさん動かすヨガさえも出来ることが、当時のわたしの周りに現れてくれた、たくさんの人の努力と、たくさんの人の工夫と、わたしの生まれ持った身体の造りが起こしてくれた「奇跡」だから。わたしの生まれ持った身体の造りの詳細は第一章に書いてある。こんなん自らの意志では意図して生まれてこれない。これも、ただひたすら感謝するしかない。今も自力でおしっこする度に感動するよ。トイレ行く度に感動だよ。そんな無駄に多忙な毎日を生きたくなかったら、飛び降りんなよ。どうしても死にたくなったら【わかりみの深い「完全自殺マニュアル」 - わたしはここにいるよ】の中の「完全自殺マニュアル」の部分だけでいいから読めよ!一瞬で天国に行ける方法書いてあるから。え?お前何書いてんの?って思うかもだけど、全部読んだら「わかりみー!」ってなるはずだから。今回わたしが爆弾抱えつつも一見まるで健常者のようになれたのは、「奇跡」以外の何者でもないから。当時までまるで気の遠くなるほどの年月を人類が懸命に歩んで医療を発達させてなかったら、十中八九下半身不随で寝たきりになっていたはずだから。その先も生きなきゃなのに、わたし自身はうつ病もその後判明する他の精神疾患も昨年判明した発達障害も抱えながらそのハンデも乗り越えられた自信はありません。この先もこの腰どうなるかわかんない。いつ砕けんの?それ考えると安心してセックスも出来ないよ。激しいセックスする度に不安になるよ。そんな女である自分嫌すぎる!あなたとのセックスで腰が砕けました。なんて、わたしの場合リアルだから。リアルすぎて実際に腰が砕けて背骨の折れた魚みたいになったら相手ひくから。「腰が砕けるような〜♪」って米米CLUBの歌みたいにならないから。絶対に飛び降りんなよ!絶対に飛び降りんなよ!ダチョウ倶楽部じゃないから、絶対に飛び降りんなよ!

 

それでは、またこの場所で。次こそ勇気さん出てくるはず!

じゃーにー。ついんそうるじゃーにー。またこの場所でにー。腰が爆発しなかったら、また来ますね。

 

こんな、今となっては道行くすれ違う人は誰も気づかないだろうけど、昭和生まれで当時の平成の先進医療によってサイボーグみたいになったわたしは、ここにいるよ!気がついたら平成時代のほとんどを精神疾患患者として生きたけど、いい時代だったね。

 

葉月ひろな

Twitter @hazukihirona

hazukihirona@gmail.com