【第五章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」
こんにちは。みんな元気?わたしはまぁまぁ元気!オナニストサイボーグ葉月ひろなです。昨日の【【第四章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】で「そろそろ本当に勇気さん登場させないと!」という使命感にかられたサイボーグは「エピソードをはしょる」というかたちでむりやりオナニーをしたのですが、記事をアップしてから「え?このエピソードはしょったら、その後の話したいこと、話せなくない?」ということに気がつきました。たぶんそのエピソードはこの10年後ぐらいに繋がっていくのですが、おそらくこのエピソードをはしょると、そこがお話出来ないのです。で、たぶん、最後の記事で何を言いたいのか、もお話できないのです。サイボーグは脳みそがサイボーグなわけではないので、ひたすら効率が悪いのです。なので今回は少し時が遡ります。時をかける少女になります。今34歳だけど!当時は22歳だからいいよね。大丈夫だよね。成人してるけど22歳なんて小娘だし。時をかける小娘にさせます。前回2007年の4月でしたが、2006年の12月のお話から始まります。ではどうぞ!机の引き出しからタイムマシーンに乗ってください!しっかりつかまってー!わたしはわさびドラえもんの声真似がクリソツらしいので、きっと操縦出来ます!
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【【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】
【【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】
【【第三章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】
【【第四章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】
↑サイボーグになった詳細とそのサイボーグが「答え」を見つけて世界が拓かれるまでのエピソードです。
あの寒い冬の日。
2006年の12月。自宅療養を続けるわたしは、ある日母と買い物に行きました。茶色いブーツを買ってもらいました。安価なブーツだけど、わたしの足にぴったり。ヒールはあるけど、あまり高くはないし、ピンヒールではない。ハイヒールは「勝負の日だけに、しなさい」と言ってくれたロマンスグレーの整形外科医。わたしこの先勝負する日くるかわからないけど。これ、履きたいな。そんなわたしに、母が買ってくれました。「今、履いてもいいわよ」という母の言葉に背中を押されて、そのブーツを履きながら、約2年ぶりにヒールの高さを感じながら、ヒョコヒョコと歩いて母と自宅に帰っていました。そこに父からの着信がきました。
「おじいちゃんが、危ない」
その頃、父方の祖父はアルツハイマーを患い、最初は記憶と言葉をだんだん忘れていき、それでも感情は忘れることなく、自分自身の記憶と言葉が失われていくことに戸惑い、時にはそんな自分に怒り、そんな自分を理解してもらえない周囲にも言葉にはならない怒りと悲しみを表現し、だんだん正しい排泄の仕方も忘れ、食事のとり方も忘れ、自宅から医療施設に移り、そこで胃ろうの手術を受け、きっと今はもう言葉を発することも意識もほとんどないけれど、液体の食事をむりやり胃に流し込まれ、たまに喉の奥の痰を掃除機みたいので吸い取られながら、その施設で一生懸命生きていました。声をかけても、もう返事はないけれど。おじいちゃん。ひろなだよ。お見舞いに行っては、そう声をかけていました。
そんな祖父が、危篤になったと。「今すぐ来てください!」と病院から連絡があったと。わたしは履いていたブーツのまだ慣れないヒールの高さを感じながら、父と合流し、途中で祖母とも合流し、4人で祖父のいる病院に向かいました。病室まで行ったら、祖父は既に息を引き取ったあとでした。
「間に合わなかったったい………!」
父はわたしの前で、はじめて博多弁でそう言いました。お父さんが、博多弁しゃべってる。その父と祖父には、血の繋がりはありません。父が小学生の頃祖母が離婚をし、父の実の兄は離婚をしたわたしの本当の祖父に引き取られ、祖母が再婚をしたことで、わたしの父の「義理の父」となった人でした。そのわたしの父には実は妹もいて、わたしが15歳の頃にようやくその3兄妹は再会を果たしていました。その時にわたしも生まれてはじめて「いとこ」に会うことが出来ました。ずっと15年間、わたしにいとこはいないと聞かされていたのに。父の実の兄に、子どもがいたのです。そのいとこは、わたしより8歳年上のお兄さんと、わたしより2歳年上のお姉さんでした。苗字を「米田(仮名)」といいました。わたしは葉月家の末子孫ではなく、米田家の末子孫だったのです。そして、その米田家は、このいとことの初対面から15年以上経ってからその結論に至るのですが、日本のある一族の血を、少なからず引いている一族でした。いとこのお兄さんもお姉さんも、卒業した大学は法学部。わたしの父もそうでした。なのでわたしも中退した大学は法学部でした。わたしだけ、全然活かせてないけど。
そんな父の、血の繋がりはない祖父。すぐにお葬式の準備に入りました。祖父の写真を選び、飾る花を選び、いよいよ明日はお通夜。そんなお通夜の前日に「もっと、親孝行すればよかった………!」そう父は泣き崩れました。わたしの父はひたすら現実主義・合理主義なはずなのに、テレビで感動する話が流れたら、黙りながら涙を流す人でしたし、そこで泣く?というところでも号泣する人でした。なので父の涙には驚きませんでしたが「今、この人は父ではなく、ひとりの息子なんだ。」そう感じていました。そこに、血の繋がりなんか、なくたって。
その祖父のお通夜で読み上げる弔辞が、わたしに任されることになりました。なぜか母が「やってみなさい。あなたなら出来る」と言ってくれたのです。この頃わたしは予備校の彼が忘れられない一心で、よくその思い出を短いポエムにしていました。そして漫画の二次創作でも携帯サイトで夢小説を書いていました。その他にもパソコンでサイトを立ち上げ、自分の言葉を綴っていました。そんなわたしの創作活動を知っていた母が「やってみなさい」と。「あなたなら出来る」と。久しぶりに、人前で話す。わたしは小学生の頃に児童会長をしていて、よく全校生徒の前で挨拶をしていました。全て自分で考え、完璧に暗記して。今回も全部自分で考えよう。ちゃんと暗記して話そう。そう決めました。
そうしてお通夜を迎え、わたしが弔辞を読みました。
おじいちゃん。今、おじいちゃんの心の色は、どんな色をしているでしょうか。わたしは心を色に喩えるのが好きです。悲しみの群青、怒りの深紅、よろこびの輝く黄色。絶望の漆黒。あなたの心は今どんな色をしていますか。全ての浄化された、透きとおる透明な色をしているでしょうか。わたしとおじいちゃんの間には、血の繋がりはありません。けれど、おじいちゃんは、わたしの作るカレーを本当にたのしみにしていてくれた。韓国からの帰国子女のわたしの作るカレーは、おじいちゃんには辛すぎるはずなのです。なのに、わたしが九州に来る度にカレーを作ったら、その翌日に「ひろなのカレーはまだあるか?」と、仕事場から電話をかけてきてくれたぐらい、わたしのカレーをたのしみにしていてくれました。同じように血の繋がりのない兄が幼い頃、一緒に海にいったら、わざわざズボンを脱いまで、一緒にびしょ濡れになるまで遊んでいてくれたと聞きます。そんな兄からもらった腕時計を、ずっと大事にしていたと。ビデオカメラで遊んでいる時に、それが動画を撮れると知らないおじいちゃんは、ずっと笑顔で止まっていてくれて。「おじいちゃん!動いていいんだよ!」と言っても、ずっと笑っていてくれて。そんなわたしたちは、血の繋がりなんかなくても、確かにあなたの孫なのだと、生きているうちに伝えられなくて、本当にごめんなさい。今おじいちゃんの隣にある、囲碁。最初の一手を、お父さんに打ってもらいました。続きを、天国で楽しんでください。ありがとう。愛してくれて。だいすきです。おじいちゃん。
平成18年12月18日 孫 葉月ひろな
そうして弔辞を終え、自分の席に戻るわたしを、東京からかけつけた母方の祖母が、小さく、誰にも悟られないように、聞こえないように拍手していました。おばあちゃん、久しぶりだね。どこに帰ったらいいかわからないわたしを、よく東京のおばあちゃんの家に泊まらせてくれた。ご飯を食べさせてくれて「食べなさい。若い子が太ってるのなんて、ちっともおかしくない」と言ってくれて。わたしは今思えば痩せていたけど、ひたすら太るのがこわくて。それでも食欲なんておさまらなくて。おばあちゃんのご飯が、本当に好きだった。わたしが電話で「どこに帰ったらいいかわからない」と言ったら「自分の家なんだから、胸はって帰りなさい」って言ってくれた。おばあちゃん。こんなお葬式の席で、拍手なんてだめだよ。大したこと言っていないし、正直に話しただけ。でも。ありがとう。
そんなお葬式で、なぜかその亡くなった祖父の妻である祖母が、なんだか頭がお花畑で。え?それ、おかしいよね?なんか、浮かれてるよね?あれ?悲しまなきゃいけない場面になったら、ちゃんと悲しんでる「フリ」してる。たぶん本当に悲しいんだけど、それでも。それは、明らかに、周りの空気を読んでいるからだよね?でも空気読みきれていないよ。浮かれてるもん。そりゃ大往生した方のお葬式は、悲しむことより、笑って話すことは多いよ。おじいちゃん80歳まで生きれたから、大往生だけど。でも、あなたの浮かれ方は、なんだか違う。なんだか違和感がある。それ、たぶんみんな、気づいているよ。
そんななぜか浮かれている祖母に、告別式のあとタクシーに乗っている時に「お前、あり得ない!」と、父が大声を出していたそうです。そうしてそれぞれの家路につき、はじめての九州の実家に来た、当時は関西に住んでいた兄と一緒にいた時、その父方の祖母からわたしに電話がかかってきて「恥をかいた。あんなタクシーの運転手さんが聞いているところで、お父さんは怒鳴った。ひろなちゃん………おばあちゃんね。もう、早く、お迎えが来てほしい………」と泣いているのです。「おばあちゃん!そんなこと言っちゃだめなんだよ!自分で死にたいだなんで、そんなこと絶対言っちゃだめなんだよ!」と、わたしは泣きながら怒りました。それを見ていた兄に「だって、だって。わたしも自分で飛び降りた。この手首も自分で切った。その他にも何回も自分で死のうとした。でも!わたしの関東の闘病仲間には、本当に死んでしまった人が何人もいる。前はリタリンが普通に処方されていたから、リタリン中毒で死んでいった人もいる。電車にバイクに乗ったまま自ら突っ込んで、亡くなった人もいる。病院でもみんなつらくて、死にたい、ってよく言ってた。その気持ちすごいわかる。けど!自ら死んでいいわけないんだ!それだけは、間違っていないはずなんだ………!」そう泣き崩れました。そんなわたしを「お前、ちゃんと生きれてるよ。誰よりも、精一杯生きてる」そう言ってくれました。
この7歳年上の兄は、確かに家庭内で暴力をふるっていました。しかし、それは誰かを傷つけたいのではなく、彼の「たすけてくれ!俺を、この暗闇から出してくれ!」と叫ぶ、悲痛な心の声でした。わたしたちは帰国子女で、なぜかお互い、同じ日本人なのに、帰国したこの日本で、差別を受けました。なんとかみんなと仲良くなりたいのに、ひたすら不器用だったわたしたち兄妹は、あらゆるいじめの対象になりました。そんなわたしたちは、ひたすら不器用なので、兄は暴力でその苦しみを訴え、わたしは精神を病むことで自分の世界に閉じこもっていきました。それしか出来なかった。そうすることしか、出来なかった。そんな兄とも、わたしが退学した全日制の高校生だった時から、同じ家に住んでいても3年以上言葉を交わすことはありませんでした。そんなわたしたちが、わたしが18歳の時に予備校の彼との別れの最後のきっかけになった両腕の深いリストカットとオーバードーズをして自室で倒れている時に、最初にわたしを発見してくれたのが、兄でした。「ひろな!ひろな!しっかりしろ!大丈夫か!お兄ちゃんだ!お兄ちゃんだぞ!お前のお兄ちゃんだ!もう仲直りしただろ!お前の、お兄ちゃんだぞ!」と、わたしに言ってくれました。え?いつ、仲直りしたっけ………あ。この間、お父さんとお母さんに「ふたりが連絡をとれないと、私達が困る」って言われて、はじめて携帯の番号、交換したね。言われたからしただけだったのに、あれは、しぶしぶ教えてくれたお兄ちゃんは、あれが精一杯の仲直りだったんだね。それからも一度も電話もメールもしなかったのに。不器用だね。本当に、お兄ちゃん、不器用だね。わたしも不器用だからさ。お兄ちゃんの気持ち、すごいわかるよ。お兄ちゃん。わたしたち、また、幼い頃のように、仲のよかったわたし達に、戻れるのかな。あの時の救急搬送の救急車の中で、わたしはそう思っていました。その後兄は就職し、会社の寮に入り、もうすぐ大学生時代の時からの恋人との結婚を控えていました。あの仲直りから、あまり接点はないけど。お兄ちゃん。あなたがまたわたしを肯定してくれるなんて、夢にも思っていなかったんだ。この世界でたった1人の血を分けたわたしの兄は、ただひたすら、不器用だから。
そんな祖父のお葬式の、約5ヶ月後の2007年4月。わたしが家出をして、自分だけの「答え」を見つけて、再び世界に自ら出ていくようになってからすぐ、兄の結婚式で、わたしが祝辞を読むことになりました。身内に不幸があった時は、翌年でもお祝いごとは中止されるのが一般的ですが「おじいちゃんなら、喜んでくれるから」という結論が家族会議で出て、そのまま結婚式がひらかれることになりました。「読んでくれないか、祝辞。」そう兄に、お願いをされたのです。わたしは母が成人式の時に着た振り袖に身を包んで出席しました。
「今度は、親族の登場です!幼い頃から芸術肌だとご紹介を受けました。新郎の妹さん!お願いします!」
ん?わたしはいつから芸術肌になってしまったのだ。絵を描くことも楽器を演奏することも大好きだけど、どれも大したことなくて、今となっちゃどれもこれも極められなくて、ひたすら中途半端なのに。そんな慌てた心境で前に出ました。この結婚式にはおよそ400万円がかけられ、それだけ豪華で、わたしたち兄妹には幼い頃から馴染みの深い吹奏楽部に生演奏でBGMがお願いされていました。トランペット。サックス。ピアノ。どれもが、わたしと兄の、思い出の楽器です。
お兄ちゃんへ。あなたは本当に不器用で。わたしも不器用で。幼い頃に名古屋に住んでいた時に、わたしはお兄ちゃんと遊びたくて。でもお兄ちゃんは、友達と遊びたくて。そうしたら「お姫様ごっこしよう!」って言ってくれて。「何からする!?」とワクワクするわたしに「お姫様、お昼寝の時間でございます」って言い出す。「わかった!お昼寝します!」と横になったわたしを、その友達とあやしはじめて。寝たふりをしていたら、いつの間にかふたりの声が聞こえなくなって。目をあけたら、ふたりがそこにいない!お姫様本当にびっくりしたよ。わたしたちは、あまり顔が似ていない。それぞれの顔のパーツが、それぞれお父さんとお母さんが、全て逆になって生まれてきた。韓国の日本人学校でも「君たち、似ていないな」って言われていた。日本人学校はバス通学だったから、わたしはひたすらお兄ちゃんの隣に座りたかった。当時お兄ちゃんは中学生だったから「お兄ちゃん、だーいすき!」そう言いながら寄りかかるわたしを「恥ずかしいから、やめてくれ」って、嫌なんだよって表情をして窓の外を見ていた。そんなわたしたちは、ある時長い間、会話を交わすことさえなくなっていました。でも、幼い頃に、わたしがなけなしのお小遣いでプレゼントした、あの小さな茶色いお財布。ボロボロになっているのに、もうすりきれているのに、ずっと大切にしていてくれたことを、知っています。ただただ、不器用なあなた。よく自室にこもって、ヘッドホンをつけながら、電子ピアノに思いをぶつけていたのを知っています。そんなあなたの抱えていた孤独を、わたしは、たぶん、全部知っているよ。もうこの先の道は、俺には拓かれないのでは。そう思ったこともあったでしょう。そんなあなたが、たどり着いた「愛」。桜の季節に誓ったこの愛が、永遠に散ることがありませんように。そして、よしこお姉ちゃん。こんな不器用な兄ですが、わたしの、大好きな、自慢の兄です。どうか兄のことをこれからも、よろしくお願いいたします。そしてお兄ちゃん。また、あなたのピアノをわたしに聴かせてください。お兄ちゃん。結婚、おめでとう!妹の、ひろなより。
兄は、タキシード姿で、「わたしはあなたの孤独を全部知っていた」と言った時から、ひたすら下を向きながら目頭をおさえて、それでも涙がこらえきれなかったのか、その背中で泣いていました。「新郎、泣かされてしまいましたね」そう司会の方が言っていました。その結婚式で、最後に親族としてみなさんを見送りしていた時にすれ違ったメガネをかけた男性に「すごくよかったよ。泣かされた」と言っていただきました。きっと、兄の学生時代の友人なのでしょう。あの兄の苦しかった過去を知っているのかもしれません。理系だった兄と同じ雰囲気を感じました。
結婚式は大盛況で。食事もすごくおいしくて。ドレスも本当に素敵で。途中で吹奏楽部が「ルパン三世のテーマ」を奏でて。ああ、これ演奏したな。もうこれ、吹奏楽部のためだけにあるような曲だよね。そんなことを思いながら、新婦からご両親への手紙の伴奏を、兄がピアノでして。手紙が読み終わると同時に、きれいに終わるように兄は演奏して。あなたは本当にピアノが、すごく上手。わたしは、あなたのように、ひとつのことをこんなに極められなかったよ。少し羨ましくなりながら、親族の机の上に飾られた小さな祖父の写真が、笑っていて。しあわせだな。本当に、よかったな。お兄ちゃん、よかったね。そう思うわたしの隣で、東京の祖母が、つらそうな顔をしていました。何か、必死に我慢しているような。それを悟られないようにしているような。のちに祖母から打ち明けられるのですが、この時、わたしを幼い頃からひたすら受け止めてくれたこの東京の祖母は、パーキンソン病を、診断されたばかりだったのです。「孫の晴れ舞台で、こんなことを言ってはいけない」と、ひたすら身体の震えを、我慢していたのです。
この大盛況だった結婚式の数日後に、わたしのミクシィのページに、一通のメッセージが入りました。友達の友達なのかな?でも、どこの誰かはわからない。ハンドルネームを「たくや」と名乗っていました。
今、病気抱えているの?学校にも行けないのかな。それだったら毎日つまらないよね。よかったら、メッセージ交換しませんか?
そう書かれていました。今だったら「ただ出会う気満々の男性からのメッセージ」と、受け止められるかもしれません。わたしも今だったら、草を生やしながら無視すると思います。しかし当時は今ほど出会い系サイトもなかったし、スマホもないのでマッチングアプリもありませんし、当時のミクシィは自他ともに認めるとても健全なSNSでした。しかもわたしはまともな社会経験のあまりない、世間知らずな小娘です。普通に「ありがとう」とメッセージを返し、それからミクシィ上でメッセージの交換が始まりました。「たくや」と名乗っているけど、本当は「岩本勇気」という名前なのだと。26歳で、最近大きな失恋をしたばかり。次の恋はしばらくしなくていいと思っていること。料理が好きなこと。ビリヤードが好きなこと。打ち明けたわたしの自宅からはたぶん地下鉄と電車を使って30分ぐらいの距離に住んでいること。たくさん自分のことを話してくれて、「ビリヤードしてみたいな」と言ったわたしに「じゃあ今度、一緒に遊びに行こうか」と言ってくれて。「行きたい行きたい!わたし最近ようやく毎日が楽しくてさ!もっと毎日楽しくしたい!わたし、欲ばりだから!」そんなメッセージを交わし、メールアドレスを交換しました。でもそのメールアドレスを交換した直後に、東北のひろなから電話がかかってきて、長電話をしていたわたしは、その岩本勇気さんからのメールにすぐに返せなくて。「メール送ったけど、届いているよね?」というメールが来ていて。やっちまった………!すぐに返さなきゃ不安になるよね………!と、慌てて返して。そのメールのやりとりで、お互いの写メを交換しました。とても素敵な人。どこかNEWSの小山くんに似ているような。そんなわたしはなんとすっぴんの写メを送りました!F田先生に写真を撮られる時に、すっぴんだから嫌だって言ったのに!だってその頃は、毎日まともにお化粧もしていなかったから。わたしはもともと、ギャルメイクが好きで。肌は一切焼かず、なるべく美白に気を使ったギャルメイクが好きで。浜崎あゆみさんみたいな感じを目指していて。当時はまだつけまつげが普及していなかったので、ひたすらマスカラを重ね塗りするんだけど。むしろこの濃いお化粧しなければ人前に出れない、ぐらいだったのに、この頃は「そろそろ薄いメイクにした方がいいかな?」って思っていたし、何よりそんなメイクでさえまともにしていなかったので!
そんなこんなで、明日はその岩本勇気さんと遊びに行く。九州ではじめて、誰かと遊びに行く。「いつにする?」って言われたから、「この日と、この日なら会える……どっちがいいかな?」って言ったら「それなら、両方遊ぼう。迷うぐらいなら両方楽しい日にしよう。俺は次の仕事は、ちょっと静岡まで行くことになったから、しばらく休みなんだよ」と言ってくれて。その頃のわたしにとっては、誰かと遊びに行く日程を、両方楽しい日にしよう、って言ってもらえたのは、生まれてはじめてで。こんな人いるんだな。なんでかな。なんで。こんなに胸が、高鳴るんだろう。ドキドキした自分の胸の鼓動を感じつつ、(おさまれ!じゃないと寝れない!寝ないとファンデのノリが悪くなる!)と、それすらも楽しみながら、ベッドの布団にくるまっていました。最近よくおでかけするけどさ。めっちゃ楽しいんだけどさ。九州のマルキューみたいなところは、東京のマルキューより広々してて、見て回るだけでも移動がしやすくて。街が狭いから、だいたいのところなら、自転車で行ける距離にあるし。程よく田舎で、程よく都会で、居心地がいいんだ。なのに、スタバやドトールに入る度に、なんだか、さみしかったんだよ。なんでかな。わかんないんだけど「わたしの目の前のこの席に、誰か一緒に居てくれたら。」そんなことばかり、考えていたんだよ。楽しみだな。明日は、どんな1日になるのかな。あの服着ていこう。この間買ったばかりの、ビームスのゆるいお尻まである黒いトップス。自転車乗るから、スキニー履こう。最近少し太ってきたから、そのコーデが一番いいな。そんなワクワクを抱きしめながら、眠りにつきました。2007年4月の、海に家出をしてから数週間後の、26日の夜でした。
はい、カーット!ここまで!
ようやく出会った!ようやく出会った!……………か!?本当に出会ったか!?まだ知り合っただけでご対面してなーい!でもなんだか達成感。ふたりがようやく知り合ったから達成感。今回一時的に時はさかのぼったし、また「このエピソード本当に要るん?」ってみんななったと思うけど、それでもエピソードは最小限におさえました…………!ぶっちゃけ飛ばしちゃいけないエピソードあった!あった!そこ飛ばしちゃだめ!カーット!って場面あった!でももう今回はそのまますっ飛ばして更新ボタン、ポチります。書き加えるのがめんどうだという理由だけで。まぁいずれそのエピソードは説明出来るはずだから、大丈夫。いけるいける。
小娘と一緒に時をかけてくれてありがとう!
岩本勇気さんと、この先どうなる…………!?
彼は本当に、出会い厨じゃない…………!?
そんな疑問すら持っていなかった当時の小娘葉月ひろな(22)!
とりあえず、こんな誘われ方をネット上でされたら、お前ら絶対についていくな。
十中八九出会い厨でセックスしか頭にないから。
ではまたこの場所で!またにー!誤字脱字リンクミスあったらあとで直すー!
葉月ひろな
Twitter @hazukihirona
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