わたしはここにいるよ

インターネットの片隅で愛を叫ぶ

【第三章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」

おはようございます。サイボーグ葉月ひろなです。昨日わたし危篤状態になりまして。サイボーグが危篤状態?それただ壊れるだけなんじゃないの?って思うと思うのですが、一応わたしまだ人間なので、一応、死ねるんですよ。いつものように就寝前に睡眠薬を飲んだら、何故か目の前が真っ暗になりまして。電気点けてんのに目開けてんのに真っ暗にオートでなってって。立った状態で睡眠薬を飲んでそのままベッドに行こうと思っていたの。すっごいめまいで立ってらんない。別にオーバードーズしたわけじゃないのに、何故か目の前真っ暗。ちょっと見えてきたかなって思ったら、すごい耳鳴り。ザーザーいってる。ザーザー音がなる耳鳴りは生まれてはじめてだったので、ひたすら恐怖で。なんで?なんで?ついにお迎えきた?あまりに長い間そんな状態が続いたので、死を覚悟しました。救急車は呼びたくない。もうこれ以上医療関係者巻き込みたくない。前回の記事をアップしたばかりだったのもあって、サイボーグはなんとかベッドに横たわり、死を覚悟しました。意識も気を抜くと吹っ飛びそう。仮に救急車呼んでも、一人暮らしのわたしは自力で玄関の鍵を開けることは出来ない。寝る前だからチェーンもしめた。わたしの家には猫しかいない。猫の手を借りても開けられない。ごめん、ママ、死ぬしかないかも。あなたの手が玄関の鍵とチェーンを開けられたら………ってこの子残して死ぬの?そんなんでわたし死ねるの?生きなきゃ!でももう死にそう。どうしよう。友達に電話かける?でもこんな危篤状態で電話かける?みんな飛行機や新幹線使わないとわたしの家には来れないのに?そんなわたしの危篤状態受け入れられる?わたしだったら受け入れられない。大人しく死ぬしかない。でも愛猫!でももうママ死ぬしかない。自分の意志とは関係なく死ぬしかない。あ!元夫!あいつならきっとこんなわたしの危篤状態受け入れられる。だってあいつはこの世界で最も勇ましく最も勇敢でわたしのこんな危篤状態にも最も慣れてる。高速使えばうちにも来れるだろうしあいつならわたしがヤバくなったら交通ルールしっかり守った上で周りに迷惑かけることなく高速すっ飛ばしてくる。そんなんわたしが一番よく知っている。わたしはその高速代とガソリン代をしっかり返す。仮に生活費だけでいっぱいいっぱいでもあいつはわたしが全額返すまで待っててくれる。電話してる間もわたしはきっと意識繋ぎ止められる。あいつなら絶対わたしの意識繋ぎ止めながら電話する。ハンズフリーにしてその上でちゃんと律儀に交通ルール守る。あいつほど正義の塊いない。元夫ー!今電話出来るー!?ってLINEした。律儀にLINEした。めっちゃ時間かけてその一言書いた。こう書けば電話出来るならあいつはかけてくる。安心してそうして意識を手放しました。何やってんだわたし!朝になって元夫から「ごめん、寝てた」ってLINE返ってきました。事情を説明して「ちゃんと意識手放してちゃんと眠ってちゃんと目覚めた!」って返しました。よかった。ちゃんと目覚めた。サイボーグは壊れなかった。わたし、今日も、生きてます!こんな風にいつ死ぬかわかんないから、がんばってこの連載の続き書きます。いきなり更新止まったら、サイボーグがついに壊れて天に召されたのだと思ってね。わたしはこの間違いだらけの人生、最後まで間違いながら精一杯生きます!

 

はじめての方はこちらから

【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ

↑サイボーグになった詳細が書いてあります。

 

総合病院を卒業して。

総合病院を退院して、医療用コルセットを身に着けながら、日常生活が始まりました。最初は実家に泊まって、でもわたしは向精神薬睡眠薬を飲まなければ日常生活が送れないので、実家のそばにある地下鉄から行ける精神科クリニックに行きました。一時的な通院です。院長先生が診てくれることになりました。まだ、紹介状もないのに診てくれました。精神科の転院は、基本的に以前の病院からの紹介状がないと出来ません。わたしは総合病院では紹介状をもらってこなかったし、わたしのかかりつけとする精神科は関東のままでした。それでも診てくれた精神科クリニック。街の中に、まるでその街に自然に溶け込むように、一軒家のような造りになっている、それでもとてもきれいな、小さなクリニックでした。医療用コルセットを身に着けたまま「自分で飛び降りました」と言いました。その院長先生は、偶然にも、日本の精神医学のある特定の病の分野で、有名な人でした。もちろんわたしはその事は知りません。その院長先生は数多くの論文を発表し、その特定の病の治療について、日本の精神医学界を引っ張ってきた方でした。

 

程なくして関東の自分のアパートに戻りました。でも何故かその後関東の精神科に入院しました。わたしが17歳の頃からお世話になっているかかりつけの精神科の入院病棟です。なんであの時再び入院したんだろう?当時はかかりつけのその精神科から処方される薬の量が無駄に多かったので、ところどころ記憶がありません。

 

その開放病棟の精神科に入院しながら、それまでの20年の人生を振り返っていました。わたしは父が転勤族の家庭だったので、海外を含め、たくさん自分の故郷があります。そんなわたしが一番長く身を置いたのが、日本の関東でした。こんなに長く1つの地域にいた。関東間でも何回も引っ越したけど、わたしの今の人間関係はほとんど関東で成り立っている。たくさんわかり合った。そうして、たくさんすれ違っていった。何故かわたしは幼い頃から人間関係がこの世界で一番苦手だった。幼稚園の頃から激しいトルネードのような人間関係しか築けなかった。そのトルネードを巻き起こしていたのは、他ならぬわたしだった。たくさん振り回した。たくさん手を握って、握られて、たくさん離されて、たくさん離してきた。今のわたしに、何が残ってる?この一番長く住んだ関東の地。いつからか、ひたすらみんなは先に進んで、わたしはひたすら立ち止まって。今、ここにいる。予備校の彼。そんなひたすら立ち止まるわたしを、あの人は、たくさんの光で照らしてくれた。嘘も1回もつかなかった。わたしの人生で唯一、わたしに嘘をつかなかった。最後の最後まで、偽りなく向き合ってくれた。あの人、だけだった。

 

たくさん、この関東には思い出がつまっている。でも。わたし、もう、ここから離れたいな。幼い頃から、引っ越す度に、わたしの中ではいい意味で「リセット」されてきていた。新しい土地に行くことで、いい意味で自分の人生をリセットしてきた。リスタートしてきていた。わたし、もう、リセットしたい。ここから離れて、人生をリセットしたいよ。もう、思い出の場所に行く度に、あなたを、予備校の彼を、思い出したくないよ。

 

そうして、最後の転勤を「年老いた両親の面倒をみたいから」と、故郷の九州にしてほしいと申し出て、九州に引っ越していった、父と母のいる九州に行くことを決めました。ちなみに、母の故郷は関東です。そんな母方のおじいちゃんとおばあちゃんとは、離れちゃうけど。予備校の彼との思い出の地から離れたい。その当時の自分にとっては、あまりに長く居続けて、あまりに失敗ばかりしてしまった、ひたすら間違い続けた、この土地から、離れたい。

 

そうしてアパートの契約を解除し、引っ越しの荷造りは引っ越し業者さんに「お任せパック」で全てお願いし、その精神科の入院病棟を退院した足で空港に向かい、九州への飛行機に乗りました。わたしの父は航空会社に勤めていたので、その家族は「他の乗客の見本になるように」という約束のもと、空席があれば、ありがたいことに日本国内は無料で乗れるのです。確か回数制限はあったと思います。なのでわたしにとっては空港も1つの自分のホームだったし、飛行機に乗ることも慣れていました。日本国内でも、よっぽど近くない限り、ほとんどの移動手段は飛行機です。それが一番、お金がかからないから。

 

再び降り立った、九州。

そうして九州の地に降り立ちました。実家に身を寄せました。実家といっても、わたしたち家族は何回も引っ越してきたので、多くの人が一般的に捉えている「実家」の概念とは、少し違うかもしれません。実家だけれど、その家で生活をするのは初めて。総合病院を退院したあとに一時的にお世話になった精神科クリニックに通院をお願いしました。なんだか、あの院長先生に、診てもらいたい。そう思いました。その院長先生との出会いが、その後のわたしの長い闘病生活に多大な影響を与えることになりました。その街の中に溶け込むように佇んでいる小さな精神科クリニックの院長先生が、今の34歳のわたしの主治医であり、わたしにとっての、かけがえのない「お父さん」です。

 

でも。実際に九州の地に住み始めたわたしにとって、その環境の変化すべてが、大きなストレスになりました。関東では移動手段は電車が一般的ですが、わたしの降り立った土地はバスが一般的でした。なので、定刻通りに目的地に着けることはあまりありません。また【【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】にも書きましたが、一番慣れないのは、言葉使い。当たり前だけれど、みんなその土地の方言で話している。総合病院でもロマンスグレーの整形外科医はゴリゴリの博多弁だったし、看護師さんたちも若い世代に引き継がれた方言で話していたし、わたしの九州の祖父母も昔ならではの方言で話していました。今の若い世代では使わない方言でも話していました。だから、何を言っているかわかる時とわからない時がありました。「ばってん」とか。これは今の若い世代が使うことはあまりないのですが、当時のわたしにとっては「〜だけん」だとか「〜と?」とかも、文脈から意味を推測するしかありませんでした。父も上京してからは標準語で話すようにしていたので。そして「〜だけん」「〜だけん」と会話をしながらすれ違う人たちが、まるで喧嘩をしているみたいに感じていました。実際に頻繁に耳にすると、なんだか乱暴な印象を受けてしまったのです。家の近くのコンビニに出かけるだけでも、まるでみんなが喧嘩している。そんな感覚でした。そんなこと、本当にないんだけど。

 

そして、通院をお願いした院長先生に「飛び降りをしたばかりなのだろう。今は、自宅で療養をしなさい。精神科を退院したばかりだから、診察は週に2回。僕は退院をしたばかりの患者は週に2回に診る」とおっしゃってくれました。一応、この時が初診扱いです。でも。当時多くの精神科がそうであったように、初診の際は「それまでの自分の出生や人生での出来事を、全て話す」とこから始まるのはずなのです。そして、それは本当に苦痛なのです。わたしにとっては苦痛以外の何者でもありませんでした。なんで、こんな辛い出来事を、全部思い出して、話さなきゃいけないんだ。精神科にかかる上で患者の自己紹介としてはそれは普通のことかもしれませんが、わたしにとっては苦痛な時間なのです。わたしはそれまで何回も転院を経験していました。様々な精神科を、藁をもすがる思いで訪れました。その度に長い自己紹介で自分のそれまでの生い立ちを話していました。それが普通のことだと思っていました。なのに。この院長先生は、そんなこと話させない。そんな時間を設けない。こんな病院あるんだ。そう思いました。

 

初診の際は、だいたいが、身長と体重と血圧を測ります。その後の治療において、その数値の変化を参考にするためかもしれません。医療用コルセットを身に着けたまま、看護婦さんに身長を測ってもらい、体重計に乗りました。「コルセットとジーパンの重さ、引きますね」とてもかわいらしい看護婦さんがそう言ってくれました。口調もやさしくて、きれいな長い黒髪で、とてもかわいらしい顔立ちで。わたしより年上なのはもちろんわかりますが、なんだか、とても安心しました。それまで白衣に身を包んだ看護婦さんしか見たことのなかったわたしは、私服にエプロン姿の看護婦さんは、とても新鮮でした。そういえば、院長先生も白衣を着ていない。このクリニックは、なんだか。患者と医療関係者の間に感じられる距離が、とっても近い。

 

わたしのもう1つ持っていた病。

その、なにもかもが「はじめて」と感じる小さな精神科クリニックで、わたしは他の病を診断されます。もちろん「うつ」も持っています。うつ病を抱えていることに間違いはありません。だけれど。わたしの起こす行動には、うつ病だから、だけでは説明の出来ないことが、あまりに多い。それはだいぶ前から感じていました。精神科病棟に入院しても、他のうつ病の患者さんとは、わたしはちょっと、違う。そんなわたしに「境界性パーソナリティ障害」という病名が診断されました。今ではそんな○○パーソナリティ障害、と広く呼ばれるようになりましたが、その当時は境界性パーソナリティ障害は「境界性人格障害」という呼び名が、一般的でした。もちろん人格そのものに障害があるわけではないし、そう誤解を招くことが多いことから、わたしがこの病名を診断される少し前から、○○人格障害を○○パーソナリティ障害、と呼ぶようにガイドラインが訂正されました。「パーソナリティ・ディスオーダー」という英語での表記に基づきます。境界性人格障害は英語では「ボーダーライン・パーソナリティ・ディスオーダー」です。でも、まだちゃんと広まってはいない。だいたいの人が「境界性人格障害」と呼びます。統合失調症も、当時は精神分裂病という病名で診断されたぐらい、誤解の招く病名であることが多かったです。そして医療関係者やその患者の間では「境界性パーソナリティ障害」は「ボーダーライン」や「ボーダー」という呼び方をします。

 

「はじめて会った時に、そう思ったよ。この子は鬱も抱えた、ボーダーの患者だって」

 

そう、院長先生は言いました。その院長先生は「境界性パーソナリティ障害」ボーダーラインの、専門家だったのです。

 

その病気の症状の詳しい説明は、ここでは省かせていただきます。これも人それぞれなところもあるし、全てが全ての患者に当てはまるわけではないし、ここにそれを書くことによって、他の境界性パーソナリティ障害の患者さんへの誤解が広まってほしくないからです。わたしがなぜ、このブログやツイッターで、この病名を自ら打ち明けることを、今までずっと避けていたのか。誤解が広まってほしくないからです。今以上に誤解が広まってほしくないからです。わたしのような人間全てが、境界性パーソナリティ障害だと思われたくないし、境界性パーソナリティ障害の患者全てが、わたしのような人間だと思ってほしくなかったからです。境界性パーソナリティ障害は、本当に誤解が多いです。この病名でインターネットで検索をかけると、その評判があまりに悪いことは一目瞭然です。もちろんこの病を抱えた患者を支える立場の方は、その症状に「たまったもんじゃない」と感じると思います。それは否定しません。でも。その病に、障害に、一番振り回されているのは、患者本人なのです。自分のことが、自分の感情が、自分の行動が、なんでこんなにうまく操縦が出来ないのか。なんでこんなにうまくコントロールできないのか。それによって、なんでこんなに周囲をふりまわしてしまうのか。そのことに悩み、疲れ果てているのは、他ならぬ、患者本人なのです。

 

院長先生はこう言いました。

 

「ボーダーはな、確かに周囲の人間を、まるでトルネードのように巻き込み、ふりまわしてしまう。でも、みんな魅力的な人間だ。人間味あふれる、とても、魅力的な人間だ」

 

と。

 

その院長先生がそれまでに数多く出会ったボーダーの患者さんは、誰もが魅力的だったと話していました。人間味あふれる、どこか憎むことのできない、そんな魅力にあふれていたと。そして、潜在能力がとても高いと。たとえば、芸術面。絵がすごく上手い、色彩感覚が優れている、絶対音感がある、だとかいう芸術面での才能を秘めていることが多かったと。また、文章能力が優れている、会話のはずませ方がうまい、という方も多かったと。そしてそんな素晴らしい才能を、誰もが病が邪魔をして人生に活かしきれず、みんな、悩んでいる、と。確かに、それまでわたしの周りにいたボーダーの患者さんは、みんな魅力的な人でした。とても素敵な人だった。そして、自分ではきっと気づいていないけれど、すごい才能を持っていました。なんでそんなこと出来んの?どこで覚えたの?みんなそれぞれあらゆる分野でそんな才能を持っていました。でも、みんな本当に悩んでいるし、どこか極端なところもあるんだけれど、みんな、本当に素敵な、魅力的な人だった。ん?わたし、なにかそんな才能あったかな。絵を描くは好きけど、大したことないし。楽器も演奏したことあるけど、大したことないし。あれ?わたしだけその特徴持っていない。まぁ、いいや。この院長先生の診断には、間違いは感じられないから。

 

この病の完治までには、長い年月が必要とされることが多いです。とても、根気のいる治療になるのです。だからわたしのうつ病も、34歳になった今も、なかなか完治も寛解もしないのかもしれません。

 

そして院長先生は、それまでに長年飲み続けた薬の処方の大幅な改善をしました。「この量の薬は、必要ない」と判断され、手のひらいっぱいだった昼間の1回あたりの薬が、ほんの4粒になりました。朝昼晩就寝前と4回の服薬も、朝晩就寝前の3回のみ。昼も飲む必要はないと。こんな大幅な処方の改善がされると、多くの人は不安になるかもしれませんが、わたしに与えたものは安心感でした。これだけでいいんだ。なぜか、少し自信がつきました。わたしはあんな量の向精神薬を飲まなくても、生きていけるんだ。それまでに飲んでいた薬に離脱症状が出るものが含まれていなかったのかもしれません。わたしは1回あたりほんの4粒の薬だけになっても、精神状態は安定していました。そして、頓服として「リスパダール」が処方されました。手術の晩にはじめて飲んだ安定剤です。今度は液体ではなく、錠剤。とても小さな粒です。あの苦いような酸っぱいような、なんとも言えない味覚を感じることはありません。それがわたしの排卵を止めるだなんて思わなかったけれど。確かによく効く。わたしには、手放せない薬になりました。

 

そんな院長先生との診察で「先生、どうしても、今日の診察行けないよ……って日は、どうしたらいいですか?」そう訊くわたしに「這ってでも、来なさい」そう院長先生は言いました。わたしは、とても安心しました。地面を這いつくばるなんて、みっともないけどさ。でも、それでも必ず来よう。そう思えました。そんな信頼が、診察の度に芽生えました。「今度は、失敗させないから」そう院長先生は言いました。失敗させないけん、だったかもしれない。この人の施してくれる治療についていこう。主に自宅にこもってばかりのわたしにとって、診察に必ず行く、というのは、わたしの目標であり、わたしの日常になりました。

 

みんな!どうしよう!

どうしよう。ここまででいいかな?今回はここまででいいかな?勇気さんが出てこない!勇気さんまだ登場しない!むしろ今回のこのエピソード必要かな?必要だね。勇気さんとの日々を書く上ではなにもかも欠かせない………って、もしかして【【第一章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】と【【第二章】元夫「勇気」との日々。わたしの学んだ、あなたの「勇気」 - わたしはここにいるよ】のわたしの飛び降り自殺未遂は、「人は飛び降りるとどうなるのか」っていう目的だけでまとめた方がよかったかな?いやでもF田先生とのエピソードが勇気の野郎との話をする上で欠かせないはず……!…………いや、はしょってもよかったかも。そこ勇気さんとの日々では一瞬しか出てこないかも。あーーーーーーーーーでももう書いちゃったし!ありがたい感想もいただいたし!本当にありがとうございます。うれしいです。わたしが生きている意味と理由なんて全然わかんないし、もしかしたらないかもだけど「もしかすると、あるかもよ。もしかするともしかするよ」って思えます。そもそもわたし文章まとめんの苦手なんですよ!要点だけまとめんの出来ないの!なのになんでブログ書いてんだろう!話し始めたり書き始めると止まらないの!そろそろ止まりたいから、このまま更新ボタンポチります。ごめんね!いつも長ったらしくて、何言いたいかちっとも伝わってこない記事ばっか書いてごめんね!読んでくださる方の時間泥棒だよね!勇気さん出てこいよ。早く出てこいよ。お前の方からむりやり出てこいよ。あ、冒頭にいるね。「ごめん、寝てた」って冒頭で寝てたね。友情出演みたいな感じでいたね。それで許してくださいね。本当に、ごめんね…………!画像もつけなくていいよね。必ず記事にそれっぽい画像むりやりつけるの疲れてきた。あとで編集し直したらつけるかもしれないけど、とりあえずいいよね。あんまそこ重要じゃないしね。

 

では、これからも引き続きサイボーグとして壊れる形で天に召されなかったら、また来ます。またこの場所で会いましょう。「勇気さんなかなか出てこないから、もういいや」ってみんななってると思うけど。

 

また、来てね!

それまでわたしもあなたも、どうか元気でね!

わたしは、ここにいるよ!

 

葉月ひろな

Twitter @hazukihirona

hazukihirona@gmail.com