わたしはここにいるよ

インターネットの片隅で愛を叫ぶ

きっと誰もが「メッセンジャー」

みなさま、こんばんは。お久しぶりです。葉月ひろなです。「Twitter(@hazukihirona)での140文字ではおさまらない言の葉たち」を綴りたくて始めたこのブログ。最近は140文字に前ほど「限界」を感じなくなり(連投すればよいと学んだ)、Twitterの世界でばかり言葉を紡ぐ日々でした。その中でも学べることや気づきを得られることが多く、「想いや迷いはアウトプットすることで再びインプットされ、解決策にも結びつく」ことを毎日実感しております。きっと何事もひとりきりで抱え込んではいけないのだ。心の中でだけで留めていてはいけないのだ。「つぶやく」ことから、見えてくる世界がある。広がる世界がある。誰かからアドバイスが欲しいのではなく「誰かが見てくれている」そんな安心感の中で導き出される答えも、きっとある。
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ブログを更新していない間にも、私生活で様々な変化がありました。1年半前に離婚をした夫との和解。その夫との間に飼っていた愛兎のお墓参り。そしてわたしは働いていた職場を離職しました。「なにがあったし」という感じですね。「必要なことが起こり、不要なものが離れていった」のだと思っております。そんな中で、日々当たり前のように触れているスピリチュアルの世界。当たり前のように揺れている5次元と3次元の狭間。その中でのわたしの命の役割、わたしの魂が今世をかけて「やりたい」と志していたものが、少しずつ見えてきた気がしています。
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おそらく誰もがそうであるように、わたしの命は、魂は「メッセンジャー」の1人なのだと思いました。「想いを音楽にのせて届ける」「芸術に馳せて届ける」「踊りで魅せて届ける」そんなたくさんのメッセンジャーの中で、きっとわたしは「言葉で届ける」ことを今回選んだのだと思います。もしかしたら、根っからの「言葉で届ける」気質の魂なのかもしれません。もし前世というものが本当にあるのなら、わたしはどこかの国、どこかの時代で、何か「物語」や「エッセイ」という形で、当時の想いを書物に遺したのではないか。そんな夢物語を、わたしは信じたくなるのです。だから今世生まれた日本で、幼い頃から漢字辞典を最初から読んだり、漢字・ひらがな・カタカナをきれいに書こうとしたりする努力を惜しまなかったのだ。と。今回の母語である「正しい日本語」を学ぶことに、無意識に子どもの頃から、あんなにも必死だったのだ。と。
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「ツインレイ」かもしれない年下のベトナム人男性と出逢ったことで、わたしの霊性は確かに開花しました。彼と出逢った当時は、ひたすら「良いもの悪いもの関係なく引き寄せ」、「とても偶然とは思えない出来事や出逢いの繰り返し」で、そんな世界に戸惑うばかりでしたが、彼との別れから1年半が経とうとしている今、それはわたしの中で「当たり前」であると感じれるぐらいには、現実の世界に落としこむことができるようになってきました。なので、どこからどこまでが「スピリチュアル」で、どこからどこまでが「3次元」なのかの境が曖昧になってきたとも言えます。現実的な話をしているつもりが、いやそれスピリチュアルだよ!ということもしばしばです。わたしはそんな時、自覚がなかったために思わず笑ってしまうのですが、なかなか「わたしらしく」なってきたな。と思わずにいられないのです。ルパン三世でいうところの次元の台詞「面白くなってきやがった」という感覚に近いものがあります。きっとわたしは、ようやく魂の本来の願いに沿う道を、進み始めることができているのかもしれません。だってそんな時、わたしの魂は、輝いている。「楽しい」って。
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Twitter(@hazukihirona)のアカウントで繰り返しつぶやいていることですが、わたしたちの魂は、この世界に「我慢」をしにきたのでも「辛抱」をしにきたのでもありません。もしかしたら、そんな時代もあったのかもしれません。それでもわたしたちの魂は、思わず涙のあふれる幸せも、胸がはち切れんばかりの悲しみも、すべて「楽しみにきた」のです。そんな中で「様々な愛のかたち」を学びに。わたしの魂は、今回の地球旅行という人生のオプションに「発達障害」「諸々の精神疾患」をつけ加えたようです。身体的な障がいではないとはいえ、これ思ってたよりハードル高いよ?耐えきれずにリストカットしたり、飛び降りたりしちゃったじゃん。こんな上がったり下がったりのジェットコースターは正直得意じゃないです。もういやだ、責任持ってお前が乗れよ!わたしか。そっか…降りれないのか。いくら命を絶とうとしても無理だったしな。まだ帰る時間じゃないみたい。困った。どうしよう。また登っていってる。なんかもうこのジェットコースター楽しむしかないや。という諦めにも似た、潔い気持ちになれます。それなりの年齢を重ねたから。も、あるかもしれませんが。もし今回の人生を仮に「ハードモード」だとするのなら、そんなゲームを選んだわたし自身を、わたしは嫌いじゃない。「まじふざけんな」と思うこともある。でもなぜか嫌いになれない。わたしらしいな。と、諦めてしまえるのです。
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「諦め」とは決してネガティブなことではありません。「こうあるべき」「こんな風に生きるべき」そんな見えない鎧に包まれたままジタバタするよりは、「諦め」て「受け入れて」しまった方が、きっと負担も波動も軽くなる。そんな軽い波動は、重たさに抗いながら生きるよりは、きっと高い。もっと、もっと軽くなりたい。もっと高いところに行ってみたい。この人生のステップも、楽しみにきたのだから。
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「生き方」「在り方」そんなものは、本来十人十色で、それぞれ違って当たり前で、変えようとしたり、隙間を埋めようと平らにならしたりする必要はないはず。この日本では個人の個性は尊重されず、「普通」で在ること、「みんなと同じ」で在ること。行列があれば、前、ならえ。そんな不自然なことばかりが尊重され、そんな不自然さに、多くの人が悩まされているように感じます。確かに社会生活を営む上で、ある程度の「前ならえ」は必要です。秩序は必要。でも、行列にうまく並べないわたしたちが居る。そんな「グレーゾーン」は、無理やり塗りつぶす必要はない。白黒写真だって、白か黒かだけじゃきれいな写真にならない。濃いグレー、薄いグレー、たくさんの濃淡のグレーがあって、はじめて美しい写真になる。いろんな色があっていい。きっとあなたは、いい味出している。いいアクセントになっている。金子みすゞさんの言葉「みんな違って、みんないい」。だから、世界は美しい。わたしには、この世界はそう見えます。
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わたしは先日、いわゆる「社会復帰」を諦めました。大好きだった接客業も、他のどんな仕事も、なぜかいつも同じところでつまづくのです。それを「わたしの進む道はこっちじゃない」のサインと受け止め、「会社勤めをする」という、いわゆる「外に働きに出る社会復帰」を諦めました。そもそもわたし、中学からまともに学校にも通えていないし。「どうやっても出来ないぃぃぃぃぃぃ!」ことをしようとすることを、手放しました。もちろん生活費を稼ぐために、働くことはしなければなりません。でも。今インターネットがこれだけ普及しているし、なんとかなるわ。それを駆使して生きていこう。得意なことがないわけじゃないし、「なんとかなる」と思いながら、なんとかしていこう。わたしの長年の悩みや心の重荷が、ようやく軽くなった「諦め」でした。
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最近読んだ坂爪圭吾さんのブログいばや通信にも感銘を受けました。なのでこれは坂爪さんの受け売りなのですが、こんなわたしの「生き方」そして世界での「在り方」それらすべてを、すぐにうまく言葉で現せなくても、こうしてインターネットの片隅に永遠に遺し続けることができなくても、わたしなりの「生き方」や「在り方」それがどなたかの心に残り、響いてもらえたらうれしい。と思います。「こんな生き方もあるのよ」と。そんな「生き方」「在り方」は有りなのよ。と。これからも体現できたら。そんなわたしの「生き方」「在り方」がそのまま「遺言」になればいい。生き様が遺言になればいい。いばや通信の坂爪圭吾さんのような、そんな「メッセンジャー」にわたしはなりたい。そう、心から思います。
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世界各地に居るたくさんのライトワーカー。それは主に「ヒーラー」「メッセンジャー」「トランスミューター」に分けられます。ヒーラーとは人を癒やす人。看護師やカウンセラーもヒーラーです。メッセンジャーとは想いを伝える人。音楽家や芸術家、ダンサーや文筆家もメッセンジャーです。トランスミューターとは失敗を笑いに変える人。お笑い芸人さんもトランスミューターです。

 

でもわたしは、きっと誰もがメッセンジャーだ。と思います。あなたにしか伝えられない想いが必ずある。あなたにしか伝えられない愛が必ずある。きっとわたしにもある。だから、わたしは生きていく。だから、あなたも生きてほしい。大丈夫。きっと、大丈夫。

 

昔読んだ海外の老婦人の自叙伝の本の中に「春がくる度に、奇跡だわ。と毎年思う」という言葉がありました。素敵な貴婦人ですね。これからも冬は訪れる。それでも必ず春がくる。そんな奇跡は毎年起きている。そして、中学時代に通っていた塾の国語の恩師の言葉に「人生であと何回、桜の季節を見れるのか?」という問いかけがありました。わたしはそれを聞いた瞬間、どうしようもない恐怖を感じました。当時15歳だったわたしは、あと65回ぐらいかな?と考えると、言葉にあらわせない恐怖を覚えました。次の春の桜を必ず見れるわけではないのだ。そんな感覚もあったのかもしれません。それでも。今年も、春がきた。大丈夫、奇跡はまた起きた。「きっとこれからも大丈夫」そう思える、春がきた。顔を上げようと思った。目線を高くしようと思った。背筋をもう一度伸ばしてみよう、と思った。実際に目にすることができる桜の花が、もしあと45回ぐらいだとしても。それよりも少なくても。わたしはわたしの人生に何度でも花を咲かせてみせよう。小さかったら笑ってよ。大きかったら驚いてよ。そんなたくさんの花束を抱えて、わたしはいつか誇らしげに空に還るから。今流す涙が、その花をもっと美しくするのだと信じている。あなたの人知れず流す涙も、心が凍てつくような人生の冬とも思える日々も、想像以上の美しい花になる。きっと想像以上の輝きの中で花を咲かせる。それを「奇跡」が起きたとこれからも何度でも思える。だから、わたしもあなたも、どうか、生きて。生きて。生きて。生きて。

 

大丈夫。思っていたよりも、この世界は優しくて易しい。自分を傷つけないで、自分に優しくしてあげて。わたしたちが愛すべきはきっと、わたしたち自身だから。今「光の時代」が始まりました。扉をあけて。鍵はもう手にしているはず。鍵穴に合わせてみて。そう、あなた自身の「想い」「願い」「愛」がぴたりとはまります。未来のあなたと過去のあなたが、今のあなたにエールを送っている。頑なに張らなくていい。そんな「頑張る」よりは「楽しもう」。涙のあとには必ず笑顔が咲きます。明日も、この世界をともに参りましょう。

 

 

わたしはここにいるよ。

 

 

葉月ひろな

Twitter @hazukihirona

hazukihirona@gmail.com