わたしはここにいるよ

インターネットの片隅で愛を叫ぶ

スピリチュアルと現実の狭間で

はじめまして、こんにちは。スピリチュアルと現実の狭間で日々揺れ動いております「葉月ひろな」と申します。普段はTwitterのみで言葉を紡ぐ毎日ですが、140文字ではおさまらない言の葉たちを、こうしてなにか形に残せはしないものかとブログを始めてみました。
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今までもブログを書いていたことはあったのですが、まだブログというもの、ひいてはインターネットというものが今ほど主流ではなかった頃に、自分の言葉をつらつらと綴っていた自身のサイトがありまして、それはそれは大切に育んでいたのですが、ある日運営会社側の経営の都合で突然すべてのデータが消去される出来事が起きまして、それ以来インターネット上で文章を綴ることになにか抵抗みたいなものがございました。
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その後インターネットは目にも止まらぬ速さで進化していき、ブログというものがどんどん人々の生活に浸透していき、そんな中わたしも再びブログという形で自身の言葉を綴ってみようとしたことはあったのですが、当時のような、思いのたけをそのまま、自分の感じるままに書くことがどうしてもできずに、書き続けることができずにおりました。こうして書いている今も、なにか歯がゆさのようなものを感じます。なにしろ当時はまだ今よりも若く、いい意味でも悪い意味でも感受性が豊かでした。悪い意味でも?自分で書いていて違和感を覚える言葉です。果たして感受性が豊かだということは悪い意味を持つのでしょうか。
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わたしは幼い頃から感受性が豊かだったとよく言われます。母はそんなわたしを見て、将来「心の病」で苦しむのではないかと心配したと言います。そしてそれは現実となりました。未だに完治に至っておりません。闘病歴はもうすぐ人がひとり成人するぐらいです。そもそも心の病と呼ばれるものに完治というものはなく、あくまで「寛解」であるという論文を目にしたこともあります。

 

ほれみろ!感受性が豊かだなんて言葉の響き的にはいい風に聞こえるだけで、むしろ人生終わってんじゃねーか!

 

そうですね。そうかもしれません。が、しかし、わたしの人生は終わってなんかいないし、なかなか捨てたものでもございませんでした。それを、これからここで綴っていけたらと思うのです。わたしのまだ終わっていない人生を、捨てたものでもなかった日々を、わたしの目から見える世界を、そして、わたしの学んでいる「愛」を。
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「愛」。一気に胡散臭くなりましたでしょうか。そもそも冒頭で「スピリチュアル」というワードがある時点で胡散臭さ満載だったかもしれません。しかし今のわたしが自身のことを書いていこうとする上で、このふたつのワードはどうしても切り離せるものではないのです。スピリチュアルだけに偏りすぎず、しかし現実だけに偏らない。それが、今のわたしだからです。そしてその根底にあるもの。それが「愛」だと思うのです。人は、誰かを愛し、誰かに愛され、ときには愛されないことからも、「愛」を学んでいるのだと。わたしたちはそれを学びにこの地球に遊びにきているのだと。そしてしあわせとは、他ならぬ自分を愛することだと。

 

それがなかなかむずかしー!

 

そう。だからわたしは学びたい。世間からははみ出しているかもしれない。一般的にいうまっとうな人生は送れていないかもしれない。それでもわたしは、「わたし」を思いっきり、愛せるようになりたいのです。
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前置きが長くなりましたが、わたしは「心の病に理解のない人は読まないで」だとか「スピリチュアルに関心のない方はまわれ右」だとかいう言い回しを好みません。わたしは、わたしというひとりの人間を知ってほしいと思うのです。それも、できるだけたくさんの方に。だから読んでほしい、わたしの言葉が届いてほしい、なにかを感じてほしい。そう切に願います。その「なにか」とは。

 

わたしはここにいるよ

 

そう、インターネットの片隅で、叫び続けたいのです。

 

人生80年から100年の時代。その半分もまだ人生という道を歩んでいないけれど、ときに間違いながら、それでも「正しく間違って」今、わたしはここにいます。

わたしは、ここです。ここに、いるよ。

 

葉月ひろな

hazukihirona@gmail.com

Twitter @hazukihirona