わたしはここにいるよ

インターネットの片隅で愛を叫ぶ

つまりは、そういうふうにできている。

みなさま、おはようございます。葉月ひろなです。よく眠れましたでしょうか。わたしは普段10時間ほど眠るいわゆる超ロングスリーパーなのですが、今日はひさしぶりに7時間ほどで目が覚め、その時間はまだ夜明け前でした。思えば以前はいつもその時間に起きコーヒーやホットココアを飲みながら夜明けの日が昇るのを眺めていたものです。
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そしてその時間が何よりも好きでした。なんだか、叶わないかもと思う願い事も、果たされないかもと思う約束さえも、その時間だけはいつかは現実になると信じれる自然や神様みたいなものとの繋がりを感じることができたのです。正直わたしは7時間の睡眠では足りない。でも今朝は昨夜見ることのできなかった今年最初の獅子座の満月を見上げることができたので、ああきっとこれを見るためにわたしは起こされたのだ、と思うことにしました。
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さて。前回までに二部作という形でお届けしました【前編】予備校の彼。あなたのこと、忘れません。 - わたしはここにいるよと、【後編】予備校の彼。あなたのこと、忘れません。 - わたしはここにいるよの中で、「人は出会うべきときに、出会うべき人とめぐりあう」そして「ソウルメイト」という言葉を記しました。今回はそんな出会いにおける「現実世界」と「魂の世界、スピリチュアル」について、今のわたしが感じていることをお話しさせていただけたらと思います。
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と思ったのですが、途中まで長々とそのことについて書いていて、いやいやいやいやいやいやいや。果たしてわたしはそれを書くべきなのか。わたしはそれを書いて一体なにを伝えたいのだ。と自分が書いていたことに「どうどう、落ち着け」と静止をかけずにいられなくなりました。そしてその書いた文章を読み返し、なんともまぁ説得力のないことないこと。
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「スピリチュアルなんて信じない人のが多いよね」だとか「わたしもそうだったの」だとか「でもそれは人類の歴史の中で、しかもわたしたちが今生きている現実の世界で確かに存在し溢れているんだよ!」だとか「たとえば自己啓発本の中にね…」と、わたしが書かなくともそれはあまりにも周知の事実で、そしてそれを知らないという人がいたところで、わたしの命はそれを詳しく伝え広めることを役割としているのだろうかと思い留まったのです。違う。わたしはただスピリチュアルに偏りすぎず現実だけにも偏らないだけで、そしてそれは前述した通りに「世の中に溢れて」いて、人がはっきりと認識をしていなくとも多くの人がその「目には見えない引力」で繋がる出会いや出来事にはたくさん遭遇していて、さくらももこさんの著書のひとつの言葉を借りるなら、この世は「そういうふうにできている」。そしてわたしは、ただもうなんていうかやっぱりこの世界は「愛」なのだ!ということだけをひっそりとそれでもここで叫び続けたいだけなのです。
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なので今回書こうとしていたことを要約すると、やはり、人は出会うべき時に出会うべき人とめぐりあうし、人生「なんとかなる」と思っていればなんとかなるし、わたしはぼんやりと輪廻転生や大天使や天使や悪魔や魔女やハイヤーセルフやアセンデッドマスターの存在を信じているし、ゾロ目なんかのエンジェルナンバーを見ればうれしくなるし、占星術ホロスコープやオラクルカードを参考にしたりもするし、女性性と男性性の統合はたいせつだなと思うし、わたしはやはり射手座らしい性格をしているし、「あ、この人は魚座だな」とか雰囲気から感じたりもするし、そしてそれを、そういう事には興味のない友人や知り合いに打ち明けたり押し付けたりすることは今までもこれからもしない。ということです。うん。もうこれだけでいい気がしてきた。

 

しかしわたしが今までの34年の人生をずーっとそうやって歩んできたのかと言えば、その多くをそんなスピリチュアリズムな概念とは無縁で過ごしてきました。スピリチュアルなことを意識し始めたのはここ1、2年のことです。それまでは占いなんて信じなかったし、大天使ガブリエル、大天使ウリエル、大天使ミカエル…と大天使の名前は知っていてもそれは漫画や神話の中にだけ存在していると思っていたし、なによりもそれをガチで信じているってぶっちゃけ危ない。って思っていました。そして今となっては、わたしはやっぱり世間一般で言えばちょっと危ない。ということをちゃんと知っています。

 

そんなわたしがちょっと危ないということを自覚している上で話を進めさせていただけたらと思います。わたしがスピリチュアルについて知るきっかけになったのは、11歳も年下のベトナム人男性との出会いでした。当時わたしは既婚者で、夫と、雇われという形ではありましたが、コンビニを経営する立場にありました。11年をともに歩んだ夫との生活はしあわせそのものだったのですが、コンビニの経営という激務の中でお互いに「離婚」を選ぶことになります。その離婚という愛の終焉を迎える準備を進める中で、夜勤を希望してスタッフに加わったその11歳年下のベトナム人男性との出会い。出会い自体が人生で初めての衝撃を感じ、不思議な出来事がたくさん起き、まるで世界そのものがひっくり返るような感覚を覚えました。そうなるように意識もしていないのにいきなりクンダリーニ覚醒をして死ぬかもと思ったり、原因不明の体調不良という名の大浄化が続いたり、お互い母語も性別も異なるのに名前の持つ意味が同じだったり、体調や感情がシンクロしたり。今思い出してもよくわかりません。そしてなんとも情けない話ではありますが、その11歳も年下のベトナム人男性とはお互いにはっきりと「好きです」と打ち明けることはなかったけれど、お互いに強く惹かれ合い、そしてまるでお互いに初恋のようにじれったく、それでも確かにあたたかくて、かつ極めてプラトニックな関係でした。当時離婚を進めていく過程で心身ともにボロボロだったわたしの心の支えに彼はなってくれました。そんな中、ふとしたきっかけで「ツインレイ」という言葉に出会います。出会ったというかなんというか、彼とは魂の波長がものすごく近い、いいやもう究極の同じ魂を共有する「ツインレイ」というものなのではないかという言葉がふと頭に浮かび、インターネットで調べてみたら本当にその単語が存在していたというものでした。
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「ツインレイ」とは、もともとはひとつの魂であったのが、男性性と女性性に分かれた「魂の片割れ」であり、ひいては「自分自身」である、とだけここでは記しておきます。そのベトナム人男性が果たしてツインレイなのかどうかは誰にもわからないし、もちろんわたしにもまだわからないし、そもそもツインレイというもの自体が真に存在するのかも正直わかりません。ただ、その出会いをきっかけに、わたしはスピリチュアルという世界について深く知っていくことになります。
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スピリチュアルだけを盲信するのは危険です。人は人生で悲しい出来事、つらい出来事、そんな壁にぶつかり心が弱ってしまっている時に、希望を見出そうとなにかにすがりたい気持ちが大なり小なり生まれます。それ自体が悪いことだというのではなく、残念なことに、世の中にはそんな弱った人の心を利用した、スピリチュアルを語った詐欺や、それを利用して自身の欲求を満たそうとする人間が、確かに存在するのです。そしてスピリチュアルだけを盲信すると、地に足のついていない、なんともふわふわとした人生観になりがちです。「我こそは神なのだ」と名乗ってしまう人間は、やはり、ちょっと宙に浮いてる。
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しかし完璧なる「現実主義」「合理主義」の世界には、人が生きていく上で欠かすことのできないたいせつなものが、どうしても欠けているように思うのです。それだけじゃ生きていけないよ!という悲痛な心の叫びが、世の中には溢れています。そしてそれはときに人を絶望の奥底へとつき落としてしまうようにさえ感じるのです。
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わたしはその完璧なる「現実主義」「合理主義」の中には、人生で人が信じたい、いつかは起こしたいと願う「奇跡」と呼ばれるものや、その根底に存在していてほしい「愛」が足りない、または完全に欠如していると思う瞬間があります。

「この世は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです」

というのはマザー・テレサの残した言葉のひとつですが、その「愛」そしてそこから派生する、生きていてよかった!と思える「奇跡」の瞬間こそが、人が生きていく上で、求めてやまないものではないでしょうか。少なくともわたしはそうです。わたしはずっと、誰かに深く愛してもらいたいと願っておりました。機能不全家庭で育ったわたしは、それを異性に求めました。そして数多くの恋愛と1回の結婚を経験しましたが、心の隙間が埋まることはなく、むしろ広まるばかりでした。そこでわたしは「自己肯定感が低い」ということに気づきます。そしてその「自己肯定感」は「幸福度」と切っても切り離せないことを知るのです。でも、「自己肯定感」って、なに?その問いに答えが見つからず、わたしは途方に暮れていました。
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そんな中、「ツインレイ」かもしれない男性と出会い、スピリチュアルの世界について知識を深めていく過程で、共通しているものを見つけました。それは、「しあわせとは自分を愛すること」「愛は循環させるもの」ということ。答えが見つかったような気がしました。「自己肯定感」を難しく考えすぎていたようです。わたしは、誰かに、ではなく、ずっとずっと「自分を愛したかった」のです。そんな一見簡単そうな、しかも多くの人がスピリチュアルな概念を知らなくても人生を歩んでいく道の途中で遅かれ早かれ見つけるその答えを、わたしはスピリチュアルの知識を深めていく過程でようやく知ったのです。そうやって「自分を愛す」ことができて、はじめて「人を愛す」ことができるのだと、わたしは主治医に以前言われていたことを思い出しました。自分を愛し、その上で人を愛し、愛し合い、その愛はいつしか周りの人の傷をそっと癒やし包み込んでいく。そんな「真実の愛」はときに「別れ」という形で傷みもともないますが、しかしそうして「別れ」ていった人々は時を経て場所を変え、自身がかつて愛された愛し方でまた人を愛し、そうして「愛」は確かに循環していって、時にこんなことってあるんだね!という魔法のような「奇跡」の瞬間を起こすのです。
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そしてもうひとつ。スピリチュアルの世界に共通していることがあります。それは「思考の具現化」です。

 

思考に気をつけなさい、

それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、

それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、

それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、

それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、

それはいつか運命になるから。

 

マザー・テレサの残したこの言葉。わたしの心の支えのひとつですが、つまりは「思考はいつか人生を変える“運命”になる」とわたしは解釈をしています。もちろん思考をするだけではなく、人生とはつまりその思考を行動に移していくことで扉がつぎつぎと開いていくものなのですが、今まで生きてきた34年の人生、確かにわたしの「思考」は時を経て場所を変え「現実」になり、かけがえのない「運命」へとなっていきました。思ってもみなかった!という出来事でさえ、わたしの心の奥深く、潜在意識で望んでいたことは確かに実現されてきたのです。いい事も、悪い事も。
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そしてそのわたしの人生には、あとから気がつくことも多々あるのですが、出会うべきときに出会うべき人と出会い、恋人だろうと友人だろうと「わたしたちって本当に会うの初めてなのかな」と思うほどの親近感や懐かしさを覚え、そして別れも数多く訪れました。その「別れ」は、本当に本当に心が引き裂かれるような思いをするのですが、年月を重ねるうちに「感謝」へと変わります。その人生に訪れる恋人や友人との「出会い」と「別れ」を通して、学んだことはたくさんあったし、その学びを通して「今のわたし」がここにいると感じるからです。そして「もう死んでしまいたい……」という絶望の感情は、いつしか「もういつ死んでもいい……!」とさえ思えるほどの幸福な瞬間へと必ず繋がっていきました。
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人は出会うべきときに、出会うべき人とめぐりあうといいます。その出会うタイミングもシナリオも、あらかじめ決めて生まれてくるのだと。それを魂の仲間「ソウルメイト」と呼び、その魂で交わした「約束」は、この現実の世界に肉体をもって生まれてきたときには忘れている。しかしその「約束」は消えることなく、忘れているからこそ、その「約束」が果たされたときの喜びは計り知れず、そうしてお互いの人生に影響を与え合い、そしてもうこれは本当に「奇跡」なんだなと思う魔法のような瞬間が訪れる。そうしてお互いに「約束」をしてきたその出会いによって学ぶべきものを学び終えたら、別れが訪れる。そしてその別れは、次の「ソウルメイト」への出会い、そして次の「奇跡」への橋渡しになる。

すべての出会いには意味があり、すべての出来事にも意味があり、しあわせとは他ならぬ自分を愛することで、わたしたちはこの地球に遊びにきている。

そうして今世の「学び」を終えて、肉体の命尽き果て、お空に還っていって、ソウルメイトたちと「あんなことあったね」「こんなことあったね」「あん時のお前かっこよかったわ」「ありがとね」「いやいや、あの時のあれはなかったんじゃない?」「ごめんて」「まぁなにはともあれ、楽しかったよね!」と笑いあえたら。

そんな「出会い」と魔法にも似た「奇跡」がこれからもきっと訪れるのだとしたら。

スピリチュアルに触れていく過程で、そう考えることができたら、わたしは途端に、今のこの間違いだらけの人生を愛おしく思うことができたのです。
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スピリチュアルと現実の狭間で揺れ動く毎日。それはスピリチュアルに偏りすぎず、しかし現実だけにも偏らない。そうしてやはり、多くの人がはっきりと認識はしていなくとも、世界は「そういうふうにできている」。
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思えば幼い頃から、宇宙空間というものをまだ知らないのに、その空間を思い出しては「帰りたいな」という感情に見舞われては涙を流したり過呼吸になったりしていました。しかしわたしはきっと、肉体を持たずに魂だけの存在で宇宙にいたとき、暇だったのだ。悲しみや苦しみがない分、心躍るような楽しみや思わず涙があふれるほどの幸せもなかったのだ。だからわたしは、そんな悲しみや苦しみも楽しみや幸せも「全部感じたくて」この地球に遊びにきたんだ。全部全部、「次はこんな人生にしようよ」とゲームのようにシナリオもすべて決めて、「さぁーて、果たしてそんなシナリオ通りにいくかは現地に行ってからのお楽しみ〜!」だなんてすべて記憶から消して、遊園地にでも行くようなノリで何回もこの地球のアトラクションを楽しんでいるんだ。そこであまりの人生のジェットコースターの急降下に泣き叫び疲れ果て諦めたくなることでさえ、暇だったわたしはもう一度感じたかったんだ。勝手な奴。ええい、もう、そうだとしたら、大いにこの人生を遊び尽くしてやる!そう思えたら、これからも精一杯生きよう。もうほとんど諦めていた自分の生命の鼓動が胸の奥から、とくとくと湧いてきたのです。いまだ「心の病」というものが完治していなくても。

 

思いのほか長いお話になってしまいました。あともうちょっとで終わりますからみんな最後まで聞いてね!いや聞いてください。途中で登場した「ツインレイ」についてですが、そのベトナム人男性とは今は会うことはおろか、連絡さえもとれない状況にあります。これは「ツインレイ」ならではの「分離期間」なのか、それともただのわたしの片思いなのかはわかりませんが、いつかどこかで再会できたらと思っております。今は自分のしあわせを、自分を愛することを学ぶ日々。本物の「ツインレイ」ならば、チェイサー(わたし)がしっかり個を確立し、自分をまるごと愛し、自分ひとりでもしあわせに生き、そしてランナー(その男性)への執着を手放した時に、ランナーがチェイサーのもとへ帰ってくる「再会」が果たされるといいます。

 

でも、そんな通説通りにいかなくても、ツインレイだろうとなかろうと、わたしはその11歳年下のベトナム人男性にいまだに恋をしているし、正直なところその男性以外にこの先恋ができるとも今は思えないのです。しかしわたしにスピリチュアルについて知るきっかけになってくれたことに感謝しているし、やはりあの出会いは「奇跡」だったのだと感じるし、そしていくつになっても誰かに恋をする気持ちはやはり尊いなと思うのです。そして、心が芯から凍てつくような人生の冬とも思える悲惨な日々があろうとも、それでもそんなあたたかな感情を感じられるこの現実という世界を、わたしは愛しています。
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そしてわたしは今日も、ここにいます。

わたしは、ここです。ここに、いるよ。

 

葉月ひろな(Hirona Hazuki)

hazukihirona@gmail.com

Twitter @hazukihirona